膨らんで弾けて
28
「気を付けてお帰り下さい」
「今日もありがとう。いつもお任せでお願いして悪いわね」
「いえ、何にしようか考えるの楽しいです」
「次回もまた宜しくね」
「お待ちしてます」
ネイルを終えたお客様を入り口まで見送ろうと扉を開けた。陽が落ちた暗闇の中、頭上はどんよりとした曇り空が広がってる。
天気予報では晴れだと言っていたのに、今にもバケツをひっくり返したような土砂降りが降ってきそう。
「雨が降りそうですね」
「日傘があるから大丈夫よ」
「夏は日傘が便利ですよね。日差しも防げるし、突然の雨も防げるし」
便利だなと分かっているのに、大抵忘れてしまう。特に扉を開けた瞬間、眩しい太陽の光が差しこんでくると傘という概念が頭からすっぽりと抜けてしまうから困る。
折り畳みの日傘を買って、バックの中に入れっぱなしにしておこう。それならきっと忘れないはず。
帰りに日傘が売っているお店に立ち寄ろうと決めながらも、お客様を見送って扉を閉めた。
そのままにしていた道具を一度片付けて窓の外を見ると、住宅街を曲がってこちらへと歩いて来る剛ちゃんの姿が見えた。
ホームページに地図は載っているけれど、迷ってたどり着けない方が多々居るので大丈夫だろうかと心配していた。
「剛ちゃん」
窓越しに片手を上げると、分かっていた様子で剛ちゃんは静かに顎を引いただけだった。手を振った私の気持ちを少しくらい考えて欲しいと思う。
「迷わなかった?」
お店の中へとやってきた剛ちゃんを迎え入れると、休みだと言っていた通り、剛ちゃんは半袖に細いパンツ姿のラフな格好で訪れた。
スーツ姿では無い剛ちゃんは普段よりもずっと若く見える。大人になってから剛ちゃんの顔をまじまじと見たのは初めてかもしれない。
剛ちゃんってこんなにも若々しい顔をしていたんだ。
私服姿なら私より数個下に見られそう。
「ホームページに地図載ってるだろ」
「でも住宅街の方に入るから迷うお客さん多いんだよ。ちなみに私も初出勤日には迷いました」
恥ずかしいけれど、そこから2,3日は一本違う道に入って「あれ?」と首を傾げた日が続いた事は秘密にしておく。
きっと返ってくる返答は「馬鹿じゃねえの」という辛辣な言葉だろう。
向かいの椅子を引いて「どうぞ」と促すと、剛ちゃんは怪訝な表情をする。
「何か企んでんの」
「え、何も企んでないけど。いつもこうするから」
言うと、ようやく納得したのか引いた椅子へと腰を下ろしてくれた。
いつも態度の大きな剛ちゃんが、美容室の中だと落ち着かない様子でそわそわしているのが面白い。
ネイル部屋は仕切りを挟んだ奥の窓際のスペースで、窓際からは住宅街を歩いて行く色んな人の姿が見える。それが私は好きだった。
剛ちゃんは仕切り越しに美容室の中を見渡すと「他にお客は?」と聞いてくる。
手を差し出すように言うと、両手を乱暴に突き出された。
「美容室の方のお客さんはもう終わったから、私が剛ちゃんのネイル終わったら店閉めるって言ったの」
「上が住宅街なんだろ?」
「店長、遅くまで残ってヘッドスパの練習したりしてるから。たまには早めに上がって家でゆっくりして欲しいと思って。お休みも大事だから」
「ふーん。今日何時に終わるんだよ」
突き出した爪は、以前見た時よりはマシになっていた。あれから補強コートをきちんと使っている証拠だろう。
長さがバラバラな爪を整えながらも「今日は7時には帰れると思う」と言う。
剛ちゃんは片手を突きだしたまま「じゃあ飯食いにいこうぜ」と言った。
うん、と頷きかけて顔を上げる。
「今、何て言ったの」
「飯、食いにいこうぜ」
「え?」
「今日俺、暇だし」
剛ちゃんは静かに俯くと「話したい事もあるしな」と言った。
暫く押し黙っていると、ふいに窓を叩く激しい雨音が聞こえてきた。
降ってきそうとは思っていたけれど、予想よりも早かった。帰る頃には上がってくれていればいいけれど、そうでなければ傘が無い。
地面を叩く猛烈な雨の音を聞きながら、「俺、傘あるけど」と剛ちゃんは言った。
入って来た時に、傘立てに傘を入れていた姿を思い出す。
今日は有難い事に、続けてお客さんが入ってくれていたのでお昼休憩を取っていない。ご飯という言葉に思い出したようにお腹が鳴る。
傘があれば、帰りに濡れずに駅までは帰れる。
それに、私もきちんと剛ちゃんに謝らなければとは思っていた。
「奢ってやるよ」
「え、良いよ」
「男が奢ってやるって言ったら女は「ありがとう」って言うものだろ」
「そうなの?じゃあもう少し優しい言い方して欲しいけど」
奢ってやるよ、なんて後々何か請求されたらどうしようと身構えてしまうのは私だけだろうか。男の人の事が良く分からないから、普通はそういうものだと言われたらそこまでだけれど。
真ん中から割れていた爪の補強に取り掛かると、「奢ってあげる」と前方から不慣れそうな言葉が届いて顔を上げた。
眉間に濃い皺が寄っていて、これで満足かと言いたげな表情をしている剛ちゃんを見たら笑わずにはいられなかった。
おかしくて肩を震わせながらも「ありがとう」と言うと、剛ちゃんは「ふん」と鼻を鳴らして窓の外を向いていた。
激しい雨の威力は少し落ち着いたけれど、店を閉めた後も雨は上がらなかった。
店終いを終えて、最後に入り口のシャッターを下ろすと店の前では剛ちゃんが傘を差したまま待っていた。
爪の補強を終えると半ば強引にお金を払って「じゃあ後で」と出て行った。個人的に補強をしたかっただけなので、お金は貰わないつもりだったのにあまりの強引さに負けてしまった。
どこで待ち合わせをするのかも分からないまま出て行ってしまったので、お店を出た後電話をしなければと思っていたのに。
「もしかしてずっと待ってたの?」
「他に待つ場所無いだろ」
「そうだけど、お店で待っててくれても良かったのに」
雨の中待たせていたのかと思うと申し訳なくなる。
「ごめんね、お待たせしました」
シャッターを閉め切ってから、雨の中急ぎ足で剛ちゃんの元へと向かうと、「濡れるだろ」とぶっきらぼうに傘を突き出された。
そんな風に突き出したら剛ちゃんの方が濡れちゃうのに。
急いで傘の柄を押し返して、半分だけ入れさせてもらう。傘の上を雨粒がぱらぱらと弾けて飛んでいく。
「お前嫌いな物は?」
「特に無いよ」
「行きたい店は?」
「それも特に無い、と言うかこの辺だと奈々子のお店しか詳しく分からないかも」
「じゃあ適当で良いな」
剛ちゃんが歩き出すと、当たり前に傘の位置も前へとずれる。頭上からの雨粒が頭へと降ってきて、急ぎ足でその下を追いかけた。
営業職だからか、剛ちゃんは意外にもお洒落な店をいくつか知っていた。その中でも、当たりだったという創作料理のお店に行く事になった。
店内は少し賑わっていたけれど、丁度奥のテーブル席が空いていてそこへと座る事が出来た。
摘まめる物をいくつかと、私はカシスオレンジを剛ちゃんはビールを頼んで一旦開いていたメニューを閉じた。
おしぼりで手を拭きながらも「ごめんね」と呟いた。
店員さんがすぐに飲み物を運んできてくれて、私達の前へとそれぞれ置いた。
すぐにキッチンへと戻っていく姿を見届けると、剛ちゃんが「謝んな」とテーブルの下で軽く私の足を蹴ってくる。
「俺が悪かったんだから、お前は絶対謝んな。それと自分が悪いとか思ってたらもう一発本気で蹴る」
「怖いよ」
「勝手に悪いと思って、勝手に充と離れようとか考えてたら俺が絶対許さねえからな」
グラスを一気に煽った剛ちゃんはぺろりと全て飲み干してしまう。
言われた言葉にギクリとして、「はい」と頷くのが精一杯だった。
そうでなくても私は毎日グラグラしてる。どうしようどうしようと悩む日々は続いたままで、未だに解決出来ていなかった。
そこへきての剛ちゃんのこの一言。正直言って、ぐらついていた気持ちがハッキリとしかけて困ってしまう。
「私、あの頃ずっとみっちーに頼りっぱなしで、何回も謝らせてた。陸上部に入った時もそう。結局お母さんに見つかって凄く叱られたの。それをみっちーが俺が無理矢理誘って入れたって言ってくれた」
「みちかの母ちゃんの口からだけど、何となくそんな話聞いた」
「全然違うからね。私がみっちーと一緒の部活に入りたかっただけ。一度も無理矢理なんて誘われた事無いよ。でもそう言った事で、私に対する怒りの矛先がみっちーに向いて私はそれ以上叱られずに済んだ。みっちーに嫌な役押し付けたまま黙ってた」
「………」
「轢かれそうになった時も……そうだった。その後みっちーのパパが駆けつけて、優しいパパに凄く厳しく叱られてたのを私は遠目から覗いて見てるだけだった。みっちーが全部悪い事になってて、それでも何にも言い訳してなかった。みちかが飛び出して、俺はそれを追いかけただけだからって一言も言わなかった。私は自分が悪いって言いに行きたかったのに言えないまま隠れて見てた」
―――――――ずっと私は最低なのと言うと、剛ちゃんは静かに口を引き結んだ。
それから「お前の気持ちは俺も分かる」と言う。
「充は昔からそういう奴だよ。俺が他の奴に嫌な言い方しても、上手い具合にフォローして結局自分が悪いみてえに言うんだよ。何でだよって思うのに狡い俺はそれを言葉にしないで黙ってた。黙ってると上手くいくって分かってたからだ」
剛ちゃんは顔を顰めたまま、届いた漬けチーズとシーザーサラダをテーブルへと置いた店員さんに飲み物のおかわりを注文した。
「お前の気持ちは良く分かるけど、今回の……俺が言った事に関してはお前は絶対悪くねえよ。それはそれ、これはこれ。充に直接あの時悪いと思ってたって言っても、「そんな事あったっけ?」とか言うんだよ。あいつはそういう奴」
「だからって」
「だからってじゃあ良いやとはならねえけどな」
剛ちゃんは私の気持ちを同じように抱えていて、私よりずっと長くその気持ちを味わっていたのだと分かった。
取り皿に雑にサラダと漬けチーズを盛って「食えよ」と差し出される。
有難く受け取って食べると、凄く美味しくて驚いた。
お腹が空いていた事も相まって、取り皿に盛られた全ての食材をあっという間に食べ終える。
剛ちゃんは呆れたように溜息を吐いて、またそこに残っていた物を盛ってくれた。
「パスタもうめえよ」
「じゃあ最後に食べたい」
「駄目」
「え、何で」
「お前がこの件に関して、自分が悪いって思う事止めねえ限り食わせねえ」
「思ってないよ」
心にも無い事を言うと当たり前にすぐにバレてしまい、またテーブルの下で軽く足を蹴られた。
「俺は、充に劣等感抱いてたしお前の事が……好き、だったからムカついて馬鹿みてえな事したけど、分かってたんだよ。お前ら二人に、割って入る隙なんて無い事くらい。俺にもワンチャンあるかもって思ってたら、結婚の約束してる時に異議ありって乗り込んでた」
「異議ありって何か違うと思う」
「お前さ、捨ててねえんだろ」
「何を?」
「約束事の紙」
真っ直ぐに見つめられて言葉が出てこなかった。それは肯定しているのと同じ事だと分かっているのに。
畳んでいたメニューをもう一度引き寄せて、パスタメニューが並ぶそこに指を這わせた剛ちゃんはそんな私を気にする様子も無く「何パスタにするんだよ」と言う。まるで今の会話が無かった事のように。
私は暫く迷った末に「カルボナーラ」とおずおずと答えた。
剛ちゃんは慣れた様子で「すみません」と店員さんを呼んでカルボナーラを注文してくれた。
沈黙が落ちてきて、けれどその時間は長くは続かず剛ちゃんから打ち消した。
「あの時俺から受け取って、そのままお前が持って帰っただろ。充にも返してねえし、捨ててもねえならそれが答えだろ」
「………」
「充と本気で離れたいなら、突っ返して捨ててって言うか、自分で適当にゴミ箱に捨てれる」
「……捨てた……もん」
「もんとか、可愛い女しか使っちゃいけねえ語尾だって知らねえの?」
半分ほど残っていたビールをまた一気に飲み干すと、「いい加減さっさと結婚してくんね?」と言った。
「お前と充が結婚しねえと、申し訳なくて俺も一生独り身でいなきゃいけなくなるだろ」
「その言い方は狡いと思う」
「想像してみろよ。充が他の女と結婚して幸せに暮らしていく姿。お前絶対発狂して連日奈々子の店で泣き崩れるじゃん」
「………」
―――――――絶対無いよ、と言えないこの気持ち。
知らない女性と結婚したみっちーの姿をリアルに想像してしまい、瀕死状態だったHPはついに0になった。
「それでも良いって言うのかよ。その方がみっちーのためだって?馬鹿じゃね」
あまりにも辛辣すぎる言葉に「うう……」と呻いて心臓を押さえる。
「俺が見る限り、充はお前とじゃなきゃ幸せになれねえよ」
「……」
「充ほどの良い男、何年待たせるつもりだ」
剛ちゃんは「すみません」ともう一度店員さんに向かって手を上げると、追加のお酒をまた注文した。
私はちびちびと残りのお酒に口を付けながら、何の返事も返せないままだった。
「近くまで送るか?」
「大丈夫。電車もまだあるし」
最後にカルボナーラを半分で分けて食べて、剛ちゃんとのご飯はお開きになった。
時間帯的にはさほど遅すぎもせず、終電までまだ数時間余裕があるくらい。
お互いお酒は飲んでいたはずなのに、ほぼ素面なくらい足取りはどちらもしっかりしていた。
「じゃあ駅まで送らせろ」
半ば強制的な言い方に苦笑して、「ありがとう、お願いします」と頭を下げた。
店を出ると、降り続いていた雨は止んでいた。傘が無い分、私と剛ちゃんの距離は来た時よりもほんの少し遠くなっていた。
人一人、余裕で私達の間を抜けていける程だ。
両手を強く握り締めながらも「剛ちゃん、ありがとう」と言った。
剛ちゃんがあの時正直に抱えていた過去の話を言ってくれた気持ちを、今更ようやく理解した気がする。
後悔と、それから私達の背中を押すためだった。
「私ずっと色々考えてて、お母さんに電話しようかとも思ったりしたんだよね」
何でそんな事言ったの、どうしてそんな酷い事するのって。
けれどそんな事をしても、自分の中のもやもやとした気持ちが大きくなるだけだと今分かった。
お母さんはもう覚えていないかもしれない。覚えていたとして「何の事?」と言うかもしれない。
転勤ばかりだったお父さんだけれど、ようやく本社があるその場所に戻ると転勤は一旦落ち着いて、長らくその場に留まったまま。年齢もあるかもしれないけれど、お父さんは意外と仕事の出来る人だったのかもしれない。
長くその場所に留まれば、お母さんにも付き合いというものが出てくるわけで、いつも刺々しい態度ばかり取っていた雰囲気が落ち着いて、お母さんはとても楽しそうに笑っていた。友人関係が出来て、付き合いでお茶に出かける事も多くなった。
私にはずっと、全ての関わりを切らせてきたのにだ。
つまりはそういうお母さんなのだから、この怒りをぶつけた所で何の解決にもならない。私が痛手を負うだけで、何にもスッキリしない。
「でも止めた」
私と並んで歩きながらも、剛ちゃんは「そんな事するくらいなら」と口を開く。
「そんな無意味な事するくらいなら、充連れて私の素敵な彼氏ですって紹介してやれよ。ドヤ顔で。この世で充程良い男俺は知らねえから、お前の母ちゃんもさすがに文句言えねえだろ。むしろ俺もついてってやろうか」
「何その組み合わせ」
「あの時嘘ついてましたごめんなさいって。充の素敵話してやろうか。ついでにお前は車の前に飛び出した事について、数年越しに叱られるかもしれねえけど」
「そうだね。そうなったらそれは素直にごめんなさいって言う。みっちーにもお母さんにも」
抑えつけていた本当の自分が心の内で大きくなっていく。
膨らんで膨らんで、パチンと音をたてて弾けた気がした。
その瞬間いっぱいの愛に満たされていく。
「剛ちゃん」
「ん」
「今日はありがとう」
ホームへと降りる階段に足をかけて、隣の剛ちゃんを真っ直ぐ見た。
もう一度「ん」と顎を引いた剛ちゃんは、「失敗したら許さねえ」と無理難題を押し付けてくる。それはどうだろう。でも精一杯頑張るよと私も「ん」と顎を引いた。
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