事実
23
真後ろで空き瓶を軽く振り上げた奈々子の姿が見えてぎょっとした。
慌てて剛ちゃんの後ろに回ろうとした私を押し退けて、みっちーが「警察の前で良くやるな」と感心しながらも間に入った。
奈々子に殴られそうになっていた剛ちゃんは、懺悔をし終えたまま項垂れてる。別に殴られても良いと言いたげな表情のままだった。
呆然とした沈黙が落ちてきて、誰も動けなくなる。
何それーーーーーーー何それ、何それ。
永遠意味の無い問いを繰り返してる。
お母さんがみっちーにそんな事を言っていたなんて知らなかった。
剛ちゃんの気持ちに何も気づいてあげられていなかった。
みっちーがずっと後悔を抱えて生きていたなんて知らなかった。
私は、そんなみっちーに対して「誰ですかあなた」と言った。
「あなたみたいな人は知りません」と。
剛ちゃんだけじゃない、私も沢山の後悔をしてる。みっちーの気持ちを知らないまま、一人で勝手に浮かれて、みっちーの心をズタズタに切り裂いていたに違いなかった。
「剛ちゃん!?」
ふいに目の前で剛ちゃんが奈々子の手から空き瓶を奪い取ったのが見えた。自分の頭に向かって振り上げる姿に悲鳴を上げる。そうしたいのは私の方なのに。私が一番最低なのに。
剛ちゃんのした事は、確かに許されない事かもしれない。でもその元凶を作ったのは紛れも無く私だった。
酷い事を言った。そのせいで剛ちゃんは言わなくても良い嘘をついた。みっちーはそのせいでこんなに傷ついた。
最低、最低なのは全部私。
慌てて剛ちゃんの手から空き瓶を奪い取る前に、その手を輝さんが上からぐっと掴んで引き止めた。
握り込まれている指先一本一本を、固い表情のまま引き剥がしていく。輝さんの口から何の言葉も出てはこなかったけれど、「そんな事は駄目です」と言いたげな顔をしていた。
みっちーが何やってんだよと、剛ちゃんを見た。剛ちゃんを止めるべく足を向けた所だったらしく、微かにホっと安堵の息を吐き出してる。
「私、みっちーに酷い事言った……剛ちゃんにも……」
ごめんなさい、では無くどうしようという言葉が口をついて零れそうになる。
今更どうしようなんて言った所で、起きてしまった事実は変わらない。傷ついた心はもう元には戻らない。
ごめんなさいと謝るだけでは済まない。
幼い子供が、大人から頭ごなしに叱られるだけでも耐えがたい。なのに、もっと酷い言葉で詰られた。
お母さんもきっと単なる八つ当たりが混ざっていたのが分かる。
私が引っ越し先で楽しくやっている事が面白く無さそうだった。そこに剛ちゃんからの報告だ。みっちーの話となれば尚更、今までの言いたい事も含めてみっちーに向かっていくつもの言葉の刃を振りかざしたに違いない。
輝さんから瓶を受け取ったみっちーは、そのまま小脇に抱えると「悪い。俺仕事戻らないと」と言った。
「え」と顔を上げたのは私と剛ちゃんがほぼ同時だった。
輝さんが街中で停車しているパトカーを振り返ってる。
これから男性客の取り調べをするのかもしれない。もしくは一旦交番に戻るのか。どちらにしても二人はまだ仕事中だった。
「ご、ごめ……行ってください」
犯人を捕まえてくれた事についてありがとうございましたと言うべきか、剛ちゃんから聞いた真実について今までごめんなさいと謝るべきか。
迷ってる間に、みっちーは剛ちゃんの元へと歩み寄るとその頭を片手でぺんっと軽く叩いた。
顔を上げた剛ちゃんが泣きそうな顔でみっちーを見てる。
「俺がお前に怒ってる事があるとするなら、その事実を墓場まで持って行かなかった事だけだ」
――――――馬鹿野郎。
最後にそう言ったみっちーは、紛れも無く剛ちゃんの大親友のみっちーだった。
輝さんと共に急ぎ足で街中へと駆けて行く背中を見送りながらも、みっちーの小脇には空き瓶が抱えられたままな事に気が付いた。
友達が友達を殴る姿も、剛が自分を殴る姿も俺は見たくありませんとその背中がそう言っているような気がした。
手元に残されたままの約束事の存在を思いだす。
もういらないかーーーーーーだって、こんな私はみっちーには絶対相応しくない。長年苦しめ続けてきた私が、みっちーと結婚して良いわけが無い。
絶望しながらも、どうやって皆と別れて自宅マンションまで帰ったのかが分からなかった。それほど呆然としていたに違いない。
膝を抱えてソファーで項垂れたまま朝になった。仕事に行かなきゃと立ち上がりかけて、今日は休みを取っていた事に気が付いた。
週休二日で取らせてくれる休みがいつも有難いと思っているのに、こんな日はむしろ仕事に行かせて欲しいだなんて子供の我儘みたいな事を思う。
ぼーっとしているとチャイムが鳴った。
のろのろと顔を上げて、インターホンを確認する。マンションのオートロック扉の前に、みっちーの姿があった。
いつもだったら飛びついてオートロックを開けている。
でも今、どんな顔をして、どんな事を言えば良いのか分からない。
居留守を使おうと、そのまま黙って画面が消えるのを暫く待った。パっと真っ暗になった事にホっとしたのも束の間、またピンポーンとチャイムが鳴って画面が灯る。
ジっとこっちを見つめるみっちーが、居るんだろと言いたげに顎を引いてる。
応答を押していなくとも、あちらの声は部屋まで届く。
ゆっくりと開いた口が「私、充ちゃん」と言った。
呆然としたままゆっくりと瞬きを繰り返す。
「今、あなたの住むマンションの一階にいるの」
重たい腕を持ち上げて、ゆっくりと応答のボタンを押した。
「――――怖い」
一言、正直な気持ちを呟くとマンションの一階で微かに反響する私の声が届いた。
みっちーは「だろ」と頷くと、「開けるまで何回もやるから」と言った。
それは一体どんな恐怖なの。過去の過ちについての罰だとしたら受け入れるけれど、受け入れたらマンションの住人からみっちーが通報されかねない。
なるほど、みっちーもあの時こんな感じの気持ちだったのか。
される側の気持ちを初めて知りながら、オートロックを解除した。
「あの……お疲れ様です」
「うん。朝早くから悪い。起きてた?」
「起きてた」
むしろ一睡もせずに悶々と色々な事を考えてた。
みっちーを部屋に入れてから、全て昨日のままの状態だった事に気が付いた。
帰宅したまま、お風呂にも入らず、化粧も落とさず、服もそのままでずっとソファーで丸くなってた。こんな格好では、全てお見通しに違いない。
だらしないままなのが気恥ずかしいと思ったのは一瞬で、別に今更、みっちーの前でちゃんとしていなければーーーーーなんて気持ちはいらないか、と気恥ずかしさに蓋をした。
こいつ汚い。俺は無理だと思われて良い。むしろその方が良い。
みっちーはそれ以上は何も言わずに「返して欲しいんだわ」と言った。
「約束事の紙。瓶に気をとられて、大事な方持って帰るの忘れた」
私に向かってそう言ったみっちーは、昔のみっちーそのものだった。
剛ちゃんが全てを話した今、何をしても無駄だと腹を括ったのかもしれない。剛ちゃんがあの時言わなかったらどうしていたんだろう。ずっと作り出したみっちーのまま、一生生きていたんだろうか。
それを思うと、胸がズキリと苦しくなる。
「捨てたよ」
「嘘つけ」
「本当に。駅のゴミ箱に帰り道捨ててきた」
「それどこの駅?」
今にも探しに行きそうな剣幕に「忘れた」と慌てて答える。
「あんなの持ってる必要無いよ。何でずっと持ってたの?」
「言わなきゃ分かんねえの?」
「………分かりたくない」
「じゃあ言うわ。好きだから。忘れられなかったから。いつかみちかが会いにくるかもって思ってたから。自分の中でみちかには相応しく無い、待ってたら駄目だって思いながら、ずっと忘れられないまま縋りついてた」
「……でも、私の事振ろうとしてたでしょ」
期間限定の期限が終わると同時に、別れようと思ってたでしょ。
「思ってた」
正直な気持ちを吐露するみっちーに分かっていたのに傷ついた。
「でも」とみっちーは静かに呟いて「たぶん無理だった」と言う。
「このまま一緒に居たら、いずれ剛の言ってたあの話をみちかが知る事になると思って。だったら離れた方が良いと思った。そうやって自分の事責めるだろ。分かってるのに、一緒に居る時間が長くなればなるほど、別れにくくなった」
みっちーは暫く押し黙ると「みちかが、あんまりにも可愛すぎるから」と言った。
一瞬冗談かと思ったけれど、その表情はあまりにも真面目すぎて言葉に困ってしまう。嬉しいのに、それを感情として表に出しにくい。
「俺が渡した絆創膏とか、あんなの普通にどこでも売ってるのに宝物みてえに取ってるし」
「……」
―――――――だって、あれは世界にたった一つしかないみっちーがくれた絆創膏だったから。
「作っていったミネストローネは美味すぎるし」
「……」
――――――そんなの、練習したに決まってる。いつかみっちーに会った時、ちゃんとしたお嫁さんであれるようにと家事くらいはそれなりに出来るようにやっていただけ。
「デートの日、部屋散らかす程服選んでたり」
「………」
――――――あれはみっちーがスカートもワンピースも禁止にしたからだよ。せめて上だけでも可愛くあろうと思ったら、ああでもないこうでもないとなかなか決まらなくて片付ける時間まで取れなかっただけで。
でももう、全部忘れて欲しい。
「あんなの嘘だから」
両手を強く握り締めたまま「可愛いって見せたくて、全部計算して行動してただけだよ」と言った。
みっちーに好きになってもらいたくて、それで可愛いと思われる事を全部やってたーーーーーーーううん、実際そんな事を考える余裕なんてあの時無かった。
毎日必死で、追いかけて引き止める事に忙しくて計算なんてそんな事出来るはずが無かった。
けれど、みっちーが嬉しい事ばかり言うから困る。
「みちかはそんな計算高い性格じゃねえだろ。猪突猛進。思いっきり体当たり食らってる感じしかしなかった。こっちはその度大怪我してた」
「もう体当たりしないから安心して」
「……そういう気持ちにさせたく無かったから黙ってたかったんだわ。剛にも墓場まで持って行って欲しかった」
「性格まで変えさせたのに何言ってるの」
「そんな風に思ってねえから。それにああいう俺だったから出来た友人も多いしな。アホな方が気楽な事もあるんだよ。上手に使い分けて生きてきたから何も気にする事ねえよ」
「気にするよ!」
「気にして後悔してんだったら、無理して嘘つくのはやめてほしい」
「……無理してないし、嘘でも無い」
口を曲げて暫く押し黙っていると、ふいに「入っても良い?」と問いかけられた。
ずっと玄関先で話していた事に今更気づく。普段だったら急いで「ごめん!すぐ上がって」と言うのに、言葉が出てこない。
みっちーは背負っていたリュックを下ろすと、その中からビニール袋に包まれた物を出した。
中を覗くとノンアルコールのビールとおつまみが入ってる。
「大人の特権。一緒に飲まね?」
それって昼からビールを飲む人が言う台詞だと思うけれど。
良いよ、と言えないでいる私を見ると「俺、このまま帰ったら事故るかも」と言う。
「仕事終わり真っ直ぐ来たから寝てないんだわ」
「何でそんな狡い事言うの?」
「普段狡い事ばっか言ってくるお返し。適当につまんで待ってて良い?その間に風呂入って来な」
本当はベタベタした身体のままみっちーの隣に座るのが嫌だった。
私の気持ちを察した様子で、「勝手に座ってテレビ見てる」と言ってくれたみっちーに救われる。
本当はここで部屋の中に入れたら駄目だと分かってる。入れてしまったら、私なんてと拒否し続けるのが難しくなってくる。
私という存在からみっちーを解放してあげたいはずなのに、離れていく姿を間近で見たら追いかけたくなってしまう。
どうしようと思っている間に、みっちーは部屋の中へと入って来てしまった。暫く迷った末に、仕方なく脱衣場へと足を向けた。
シャワーで全身を洗い流して、髪だけを乾かして化粧もせずにそのままリビングへと戻る。全然顔違うじゃんと絶句させる最終手段だったのに、みっちーは私のスッピンを見て「昔と変わんねえな」と優しく笑って言って胸を苦しくさせた。
ノンアルコールビールを勧められて、言われるままに一本貰った。プルタブを同時に開けて、乾杯もせずに二人で飲んだ。
目の前に広げられたおつまみを見ながらも、黙っていると「本当の気持ちを隠すのって難しいな」とみっちーは言った。
「どういう意味」
「そのまんまの意味。みちかとこれ以上居たら、隠し切れなくなりそうで早く期間が終わらねえかなって毎日思ってた」
「………」
「でもそれよりずっと強い気持ちで、一生終わんなとも思ってたけど」
おつまみのチーズの袋を破ると、「食う?」と袋ごと差し出された。「食べます」とそのまま言葉を受け取って中から細いチーズを引っ張り出す。
「剛はああ言ってたけど、まじで怒って無いんだわ。俺、剛の気持ちに気づいてた。あいつが嘘ついてみちかの母ちゃんに伝えた言葉は今日初めて知ったけど、あいつの気持ち考えると仕方ねえって思うよ。俺が剛の立場なら、同じようにやりきれねえ思い抱えてたと思うからな」
「……うん」
「みちかの母ちゃんが言った言葉も、色んな感情があった故だと思ったし、俺もあの時の事ずっと考えてたから叱られた言葉もその通りだと思った。みちかが帰って来れる保証もないのに、あんな約束するべきじゃなかった。俺の事大人になってもまだ好きだったらなんて、縛り付けてるのと一緒だろ」
「そんな事ないよ」
「あの時約束してなかったら、みちかは引っ越し先で良い奴見つけて、今はもう結婚してたかもしれねえだろ?俺の存在追いかけて、傷つく事も無かったはず」
そうだろうか、そうかもしれないとは不思議と思えなかった。
仮にあの時、何の約束も交わしていなかったとして、私はそれでもみっちーの存在を大人になってからも探していたような気がする。
それほど、あの時のみっちーは私の中で大きい存在だった。
「それが分かってるんだけどなー」
隣であーあと言いたげに天井を見上げたみっちーの横顔を黙って見ていた。
暫くそうしていると、ふいにその顔が私へと向いた。
「一つだけ聞いても良いか」
「……うん」
「正直にちゃんと答えて欲しい。俺に気とか使わないで」
「………うん」
「あの言葉は、重荷だった?」
約束事を交わした時に、みっちーから言われた言葉だろうと分かる。
今この瞬間、嘘でも良いから「重荷だった」と言わなければならないのは分かってた。これは最大のチャンスだ。
みっちーを私から引き離して解放してあげられる、唯一最後のチャンスの言葉。
けれど何の言葉も出てこなかった。
重荷のわけが無い。あの言葉がどれだけ私に勇気をくれたか分からない。
みっちーは自分を狡いと言ったけれど、そんな事考えもしなかった。あの時のみっちーなりの、最大で最上級の愛の告白だったのだと今なら分かるから。
口を開いたら余計な事を言ってしまいそうで、何にも言えないでいると「好きだ」とふいをついて告白をされた。
あんなにずっと求めていた好きと言う言葉を、こんなに嬉しくないと思う日が来るなんて思わなかった。
嬉しいのに、嬉しいと思ったら駄目だと自分の気持ちを抑えつける。じゃあ結婚しようよと飛びつきたいのに、そんな事出来るはずが無い。
「ありがとう、ございます」
他人行儀なお礼を何とか振り絞って言う。
顔を上げた瞬間、狙ったように口付けられた。すぐそこから苦みの含んだビールの味がする。
「まあ、そう言う反応とは思ってたけどな」
良いよ良いよと軽い調子ですぐに私から身を離すと、再びおつまみとノンアルコールビールへと取り掛かる。テレビから流れる賑やかな声に耳を傾けながらも、みっちーは言った。
「俺が今度は好きって言わせる」
じわっと顔が熱くなりかけて、残りのビールを一気に煽った。
「みちか」
「何ですか」
他人行儀な話し方をする私を、みっちーは特に何も言わずに袋の中からチョコレートとお煎餅を取り出した。
「食う?」と言われて「食います」と頷く。
私はこれからどうしたら良いんだろう。
みっちーから離れるべきだとは思うのに、みっちーがそれを許してくれない。
今までずっと追いかける側だったから気づかなかった。みっちーの本気がこれほど今の私にとって厄介なものだなんて。
好きだと言われて嬉しくないわけが無い。好きと言わせるからと言われて舞い上がらないわけが無い。
必死にその感情が表に出ないよう、ひたすら酔えもしないノンアルコールビールを飲み続けるしかない。
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