22-2
「そう言えば、謝ってねえ」
みちかを突き飛ばした事も、嫌な事を言った事も、未だにずっと謝って無いまま。引っ越したらもう二度と会えないかもしれない。その前にそれだけはどうしても言わなければならなかった。
暗闇に包まれていく校舎の中、椅子から勢いよく立ち上がった。教室の中には誰の姿も無い。
みちかの住んでいるアパートに行こう。それで「あの時は悪かった」って謝ろう。
廊下へと出ると、ふいに隣のクラスから充とみちかの声が聞こえてきた。
そっと覗き込むと、隣の教室には二人以外誰の姿も無かった。向かい合って腰かけている姿が見えて、嫌な空気に心がざわつく。
「引っ越しちゃう前に、ちゃんと言いたくて……私みっちーの事が好きです」
か細いみちかの声は、静まり返った校舎の中で佇む俺の元までハッキリと届いた。
その言葉に充は「俺も好きだよ」と言った。
廊下の壁に背を預けながらも両手を強く握り締める。寂しいと泣くみちかの声が、大人になったら会いに来るから結婚してというみちかの言葉が、ぐりぐりと胸の中にナイフとなって突き立てられる。
廊下の向こうから隣のクラスの担任が戸締りに来る姿が見えて、慌てて自分の教室の中へと姿を隠した。
楽しそうに二人で帰っていく声音が遠ざかっていく。ランドセルの肩紐が引きちぎれるんじゃないかと思う程強く握り締め続けた。
言いたかった言葉は、いつも充に取られていく。
俺の願いは叶わないのに、充の願いはいつもきちんと叶えられていく。
いつかの劣等感が膨れ上がった。怒りの感情が化け物みたいに膨らんで俺の中で暴れ回ってる。
二人の声音が聞こえなくなってから、校舎の外へと出た。
頭の中は怒りとやりきれなさで埋め尽くされていて、その時どうしていつもの帰り道とは反対の方向へと向かったのか分からない。
二人の背を追いかけるように歩き出した俺の目に、交通量の多い街中を歩いて行く二人の背中が少し遠くに見えた。
吹き荒れた強い突風によって、みちかの抱えていた紙が飛ばされていく。会話の流れから、あれがきっといつかの約束事の紙なのだろうと思った。
「あ」
間抜けな俺の一声が漏れた瞬間、みちかがそれを追いかけて車道へと飛び出した。
スピードを上げて突っ込んでくる車が見える。
轢かれると身構えた瞬間まで、俺は一歩たりともその場から動けなかった。
「―――――みちかっ!!」
みちかを追いかけて駆けだした充がその背中を思いっきり突き飛ばした。歩道側へと二人揃って転倒すると、遅れて今の今まで二人が立っていた場所を車が急ブレーキをかけて通過した。
耳をつんざくその音に、街中を歩いていた人達が騒がしくなる。近くの交番から警察官が飛び出してきた。
何今の音?子供が飛び出したみたい。轢かれてえのかよ。子供って急に飛び出すから危ないよね。
いくつもの冷たい声が周りを取り囲んでいく中で、膨れ上がった充への劣等感がその時パチンと音をたてて弾けた。
ほんの出来心で、何で充ばっかりというやりきれなさと怒り、何をしても駄目な自分、押し留めていた心の内から色んな感情が溢れだしていく。
翌日、部活を初めて休んで早々に校舎を飛び出した。
向かった先はみちかのアパートで、チャイムを押すとみちかはまだ帰宅していないのかみちかの母ちゃんが「あら?」と不思議そうに顔を覗かせた。
黒いランドセルを背負っていたからか「みちかのお友達?」と小首を傾げられる。
転校を聞きつけて別れの挨拶にでも来たと思われたに違いなかった。
「こんばんは」
何の考えも無く喉奥からするすると、駄目な言葉が飛び出していく。
頭の中は真っ白なのに、ロボットみたいにそれらの言葉は開いた口から簡単に零れ落ちた。
「みちか昨日、怪我してなかった?」
「え……みちかが怪我?」
表情を強張らせたみちかの母ちゃんに「昨日、充がみちかを車道に突き飛ばしてるのを見たから」と嘘の言葉が飛び出した。
硬直した母ちゃんは「え」と表情を歪ませたまま問いかけてくる。え、それ本当?と。
「冗談半分だったのかも。あいつそういう所があるから。結構ふざけてやるんだよな、俺もされた事あるから」
「………」
「みちかって小さいから、突き飛ばしたら派手に転んで車に轢かれそうになってて危なかった。でもみちかに問い詰めても言わないかも。あいつ充の事好きだから、たぶん庇うと思います」
そう、そうだったんだ、と静かに頷くみちかの母ちゃんは最後に「教えてくれてありがとうね」と言って扉を閉めた。
バタンと音をたてて閉まった扉を見た瞬間、俺何やってるんだろうと跳ねる心臓の鼓動に今更気が付いた。
嘘をついた罪悪感に胸が締め付けられて、誰かに見られたらと怖くなって急いでみちかの住むアパートから逃げ出した。
その時の勢いのまま、向かったけれどみちかの住むアパートが遠ざかるごとに酷く後悔した。
――――――俺って最低だ。
翌日、酷い後悔を抱えながら学校へと向かったけれど、充はいつもと変わらない様子だった。
俺の告げ口をみちかの母ちゃんは嘘だと捉えたのか、はたまた胸の内に留める事にしたのか、どちらにしてもホっとした。
あんな嘘、言わなければ良かった。口に出してしまってから後悔しても遅かった。
朝起きた時、とんでもない事になっていたらどうしようと段々と怖くなってきて夜も眠れなかった。
充が逮捕されたりしたらどうしよう。みちかが怒って「剛ちゃんなんて消えちゃえ!」と言ってきたらどうしよう。
昨日に戻れるのなら、俺は絶対あんな嘘をみちかの母ちゃんに言ったりしない。
何事も無く学校が終わって、それでも帰るその瞬間まで恐ろしかった。みちかの母ちゃんが学校に訪ねてきたら、先生に「剛くんから来たんですけど」と凄い剣幕で俺の嘘を問いただしにきたら。
俺の心配を他所にそんな事は一切無いまま、放課後を告げるチャイムが鳴った。
気もそぞろのまま部活をしていたから、先生に「やる気が無いなら帰って良いぞ」とまで言われた。帰れるのなら俺だってそうしたい。
100メートルのゴール地点でストップウォッチ係を押し付けられて、ぼんやりと佇みながらも走って来る充の姿を眺めていた。
先生の笛の音が響いて、「よーし片付けて帰るぞー」という声を聞いた時心の底から安堵した。
グラウンドの周りを確認したけれど、みちかの母ちゃんの姿はどこにも無い。
「充、早く帰ろうぜ!」
教室で着替えを終えた充のランドセルを奪い取った。その背中をぐいぐいと押すと、充は不思議そうに「何急いでんだよ?」と小首を傾げてる。
とにかく早く、今日という一日が終わって欲しかった。
充を家まで送り届ければ、俺は明日から安心して過ごせるはず。
「お前こっちの道じゃねえじゃん」
充の家とは反対方向の俺は、いつも校門近くで「じゃあな」と言って別れる。
けれどこの目で充が何事も無く帰る姿を確認しなければ安心できず、「良いから良いから」と言って充の隣を並んで歩いた。遠回りになる事くらいどうって事無かった。
みちかの母ちゃんが俺の言葉を忘れていますように。
みちかの母ちゃんが俺の言葉を真に受けていませんように。
願いながらも歩く前方に、みちかの母ちゃんが立っていた時サーっと血の気が引いていった。
十字路の曲がり角で立っている母ちゃんの腕にはエコバックがかかっていた。
どこかで買い物をした帰りなのか、それともみちかに「買い物に行ってくるから」と行って出た後なのか。
その瞳が真っ直ぐこちらを捉えていて息が出来ない。
逃げ出したくなりながらも、逃げ場がどこにも無いのを知っている。
「みちかの母ちゃん」
充がぽつりと呟いて、「こんにちは」と頭を下げた。
その瞬間、みちかの母ちゃんが振り上げた手の平が充の頬を殴打した。
響き渡った鋭い音と共に、充が地面に転がった。留め具が外れていたランドセルから筆箱が地面へと飛び出して、鉛筆や消しゴムが足元に散乱した。
道端には俺達三人の姿しか無く、大人が子供を叩きつける瞬間を見て慌てて助けに来てくれる人間は誰も居なかった。
呆然と佇む俺の目の前で、母ちゃんは「どういうつもりなの!」と金切り声を上げた。
充は驚いたように母ちゃんを見上げているだけだった。
「みちかが車に轢かれてたらどうするの!謝りにも来ないで、自分が何をしたか分かってるの!?一歩間違えばみちかは死んでいたかもしれないのに!」
ああ、違う、どうしよう、違うのに。
息も出来ないまま呆然と佇む俺とは違い、充はゆっくりと立ち上がると「すみませんでした」と頭を下げた。
みちかの母ちゃんが決定的事実を口にしていないから、二人の会話は大事な部分が噛み合わないながら話がちゃんと通ってしまってる。
充はたぶん、自分が居ながらみちかが危ない目にあった事についてみちかの母ちゃんが怒っていると思ってる。
みちかの母ちゃんはたぶん、自分のしでかした事を充が今更後悔していると思ってる。
充がみちかを車道に突き飛ばしたという嘘を、俺がついたばっかりに。
怒りを押し殺すように「だから嫌だったのよ!」と母ちゃんは自らの髪を片手で乱しながらも言った。
「みちかを無理矢理陸上部に入れたって聞いた時から嫌な予感がしてたの!近づいて欲しくなかったの!いつかこんな事が起きるんじゃないかと思ってた」
「………」
「みちかを悪い道に引きずり込まないで。みちかの部屋からこんな物が出て来たの!あなたでしょこんな悪ふざけをしたの!」
みちかの母ちゃんがエコバックの中から乱暴に紙を取り出した。あの日誰も居ない放課後の教室の中で二人が交わした大事な約束事の紙だ。
「子供のくせにけっこんとどけなんて、ふざけないで!みちかは絶対にあなたと結婚なんてしないから!」
怒りのままに目の前でその紙を真っ二つに引き裂くと、それから細かく全てを無かった事にするように破り捨てていく。
「こんな事して、みちかの心を縛り付けないで。あの子はこれから何度も引っ越しをしなきゃいけないの!ここにはもう二度と帰って来ないんだから。引っ越した先で悲しい思いをさせるつもり?一生会えもしないのに、みちかが先に進めなくなったらどうするの!」
みちかの母ちゃんは「みちかに二度と近づかないで!」と怒鳴り散らして、「もし近づいたら警察に言うから!」と髪を振り乱し、「女の子に怪我をさせて、一生残ったらどうするの!」とまた最初の話へと話題を戻す。
自分の中の怒りをひとしきり充にぶちまけると、「みちかと二度と話さないで」と言って帰って行った。
呆然と佇む俺の胸の中はズタズタで血が溢れだしていた。自分のしでかした事でこんな事になるだなんて思わなかった。
「……みち……」
声をかけようとすると、ぼんやりと立ち尽くしていた充が静かにその場にしゃがみ込んだ。
足元に落ちた約束事の紙を一枚一枚、細かい切れ端まで丁寧に自分の手の中へと収めていく。慌てて隣へと追いついて、一緒になって散らばっていた紙を回収した。
隣を窺っても、充は泣いていなかった。
あんな剣幕で大人から怒られたら、怖いと思うのが普通なのに。意味の分からない事を当たり散らされて、「何言ってんだ!」と怒っても良いくらいなのに、充の表情は穏やかだった。
怒られて当然だと、近づくなと言われても仕方がないと言いたげな表情だった。
それは、俺の嘘の事実を知らないからだ。
「……これ」
「ありがとな」
散らばっていた紙を全て回収すると、充はそれらを両手の中に大事に収めて微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、言わなければと思った。俺のせいでこんな事になったんだと。今からみちかの母ちゃんに本当は全部嘘でしたって言いにいかねえと。
「超びっくりしたな」
「え」
ふいに笑った充から、あまり聞き慣れない軽い言葉が出てきて驚いた。
いつもそうして話していると言いたげに馴染んだ言葉と口調だけれど、一緒に居る俺には違和感でしか無かった。
「みちかの母ちゃん、すげえ怒るからめっちゃびびった。俺昨日、みちかが車に轢かれそうになった時一緒に居たんだけど、母ちゃんが怒るのも無理ないわ」
「え、……あ」
「正論すぎてその通りだなーって思って聞いてた。みちかはもう帰って来ねえのに、こんな約束事して何やってんだろ。引っ越した先で、この約束を思い出しても悲しくなるだけだよな。それに引っ越し先で俺より良い男いっぱい居そうだし」
軽い口調に絶句しながらも「お前、何それ」と言うのが精一杯だった。
「え?」と小首を傾げた充の表情を見たら、もう何も言えなくなった。
みちかを好きだという気持ちを、きっと一生忘れず抱えていくはずだった約束を、充がその瞬間全て封印してしまったのが分かったからだ。
みちかが大好きだった充が消え去っていく。
心の余裕はその時無くて、無自覚のままふいに出て来たその言葉は、みちかがいつか言っていた大嫌いな煩い人間そのもののように思えた。
まるで俺みたい、だけれど何にも言ってやれなかった。俺が嘘をついた事で二人の未来に亀裂が入った。
明るい口調とは裏腹に、充は両手に収めた紙だけは大事そうにずっとその場で握りしめていた。
みちかが引っ越した後、充は別人のように変わってしまった。
頭が良くて、優しくて、誰からも頼られる沢渡充が消え去って明るくて馬鹿でお調子者の沢渡充になっていた。
色んな女に声をかけて、あらゆる方面から振られているという話を耳にしながらも、何も言えなかった。
充は必死でみちかを忘れようと努力してる。
その事実を知っているのは俺だけだった。
みちかは二度と充の前には現れないかもしれない。
子供の頃の約束事だ、大人になったその時まで覚えているかは分からない。充はきっとそれで良いと思っているはず。
けれど仮に、もしも万が一自分の前にみちかが戻って来た時は、こんな自分は相応しくないという呪縛に捕らわれたまま、作り出したその姿でみちかに振られるつもりなのだろう。
誰ですかあなた、そんな人私の知ってるみっちーじゃないと。
いつしか俺達の間にも超える事の出来ない大きな溝が出来ていた。
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