真実

21

奈々子のお店の看板が再び壊された事について、みっちーに言おうか言うまいか迷った。奈々子自身が警察に言わないときっぱり決めているから、頼りずらい。




じゃあ友人としてならと思ったけれど、それも同じ事だった。




たまたまあの日、私と剛ちゃんが居合わせたからあの事実を知っただけ。そうでなければ奈々子は看板は一旦撤去したと言って、私にも素知らぬ態度を取っていたはず。




こんなにむしゃくしゃしているのに、当の本人がけろっとしているからどうしたら良いのか分からない。




気にしないでと言われた所で、気になるに決まってる。




私に出来る事と言ったら、奈々子のお店に飲みに行く事だけだった。




仕事を終えて、飲み屋街へと迷う事なく足を向けた。真っ直ぐ奈々子のお店へと向かうと、入り口には電工看板がもう出されていた。てっきり一旦下げると言い出すかと思っていたのに。




良く良く見ると、電工看板の表面には微かにヒビが入ってる。使い古した物ですと言われれば、なるほどと納得してしまう程度のもの。




蹴られた拍子に横倒しになった看板は、完全に電気が消えていたから壊れてしまったのだと思ってた。




看板の後ろを見るとコンセントがあって、お店の入り口にある差し込み口へとコードが伸びていた。どうやらあの時、電気が消えていたのはコンセントが抜けたからのようだった。




だからって蹴った事には納得出来ないけれど。

完全に壊れていない事に少しだけホっとしながらも扉の向こう側へと顔を覗かせる。カウンター席には剛ちゃんの姿があった。




他にはまだお客さんが居ないのか、奈々子と軽く言い合っている様子が見えた。剛ちゃんもまた心配してこうして今日も訪れてくれたんだろう。




扉を開けると「また壊されるんだから一旦下げろよ」と剛ちゃんの言葉が最後に聞こえた。




たぶん言い合っていた内容は看板の事についてだろう。




「みち、お疲れ様」




奈々子は看板の件について返答は返さないまま、私の注文を聞くまでも無くグラスに烏龍茶を注いでくれる。




剛ちゃんの目の前に置いてあるのも、どうやら烏龍茶らしかった。




もしかしたら犯人を捕まえるために、お酒を控えてくれているのかもしれない。




剛ちゃんは昨日、いつまで奈々子と一緒に居てくれたんだろう。もしかして閉店する朝方まで見張っていてくれたんだろうか。




奈々子がまた剛ちゃんから少し離れた場所にグラスを置いたので、特に移動する事なくそこへと腰を下ろした。




少し離れた場所から剛ちゃんの顔を窺ったけれど、隈が酷かったり顔色が悪かったりはしなくて安心した。



「何見てんだよ」



「ううん。剛ちゃんと連日一緒になるの珍しいと思って」




遠回しにありがとうと伝えたつもりだったけれど、全く伝わらずに「お前も納得してねえから来たんだろ」と返される。




敢えてその話題については触れないでおこうと思っていたのに。有難いけれど、剛ちゃんはもう少し空気を読む練習をして欲しい。




「あのさ、大丈夫だからね?この近辺って酔っぱらいが多いからそういう被害は良くあるんだよ」




でも看板被害は二度目だよ、と視線だけで訴える。




奈々子は分かっていながら、特に何も言わなかった。




「お前それなりに若いし、顔だけは良いから変な奴に言い寄られてるんじゃねえの?」



「性格の悪い美人だから言い寄られてない」



「お前のその性悪に気づいてない奴かもしれねえだろ。前面に出して仕事してんのか」



「してるよ。ね?」




奈々子に同意を求められて、性悪とは思ってないけど奈々子はいつもこんな感じだよと頷いておく。




接客業だからと包み隠している感じは無い。初めて来店した人にもそうだから、時々帰りが一緒になったお客さんが「あそこの店のマスターは、美人だけど性格悪そうだったな」と話しているのを聞いた事がある。




そんな事無いよ!と飛びついて奈々子語りをしたくなった。後数回通ってくれれば、奈々子がどれだけ優しくて面倒見が良いか分かって貰えると思うのに、と。




剛ちゃんは「じゃあ物好きの仕業だな」と言う。相変わらず言い方が酷い。




「みっちーには言って無いんだけど、言う気は無いんだよね?」



「無いね。本当に大した事じゃないし。心配してくれるのは有難いけど、大丈夫だから無理して通わなくて良いよ」



「奈々子に会いたいだけだよ」



「みちはいつも可愛いね」




カウンター越しに奈々子はよしよしと私を小動物を愛でるみたいに撫で回す。その様子を剛ちゃんは冷めた目で見てるだけだった。




奈々子が追及される事を嫌がるので、話題は途中から剛ちゃんの仕事について逸れてしまった。




暑い中毎日毎日スーツを着るのが嫌だという話から、仕事仲間と一緒に飲みに行ったら以前働いていた時のクソ上司共に出くわして最悪だったという話まで。




「ていうか刺し殺すかもって言ってたあの人、まだ働いてたわ。しかも未だに上司のお守りしてるみたいでほんと良くやるよ」



「剛が辞めたから辞められなかったんじゃなくて?」



「あの時期俺と一緒に他の奴等も数人辞めたからな」



「絶対そういう事でしょ」



「辞める時、一応良くしてもらってたから声はかけたんだけどな。俺辞めますけど、どうしますか?って。でも曖昧に笑っただけだったわ」



「だから剛が辞めるから」




そこまで言った所で、お店の外から騒がしい声がした。




男の人が言い争いをしているような声だった。怒鳴り散らしているのは一人なのか、同じ声が永遠聞こえてくる。




「何だろう」




お店の中に居ても届くくらいだから、相当大きな声で怒鳴っているのだろう。




「酔っぱらいだろ?酒飲んで頭おかしくなってんだよ」




剛ちゃんは放っておけと肩を竦めてグラスを取った。




その向かいで、奈々子が空き瓶を静かに握りしめたのが見えた。剛ちゃんが「え」と自分が殴られると思ったのか、慌ててスツールから下りて後ろへと後退した。




私も辛辣な事を言った剛ちゃんに、奈々子が腹を立てたのだと思っていた。




さすがに殴る事はしないと思うけれどーーーーーと思っていたら、突然静かにカウンター裏から空き瓶片手にお店の中へとやってきた。




放心している私達を置いて、奈々子が横を通り過ぎて外へと吸い寄せられるまま出て行ってしまう。




もしかして騒ぎを聞いて心配で外に出て行ったんだろうか。




やっぱり酔っ払いが騒いでるだけだった、とすぐに戻ってくると思っていた奈々子がなかなか戻ってこない。




「あいつ、看板壊された腹いせに酔っぱらい殴ってるんじゃね」




冗談を言って笑う剛ちゃんの言葉が全く笑えない。




さすがに無いよ、と思うのにそれにしては奈々子の帰りが遅すぎる。




二人で顔を見合わせて、すぐに外へと足を向けた。

扉を開くと一層騒ぎが大きくなる。どうやら店のすぐ前で言い争っていたらしい。




「え、何」




外へと出ると、男の人二人が揉み合ってる。一人はフードを深々と被っていて、身体と手足を大きく振り回しながらも逃げまどっている。




もう一人の人は、顔を隠しておらず奈々子にお菓子を手渡したあの常連客の男性だと分かった。




「助けて!!助けてください!!!殴られる!!」




悲鳴を上げて騒ぐ男を常連客の男性が無言で取り押さえてる。




一体何事なんだろうと目を瞬くと、奈々子が空き瓶片手にその様子を黙って見ていた。異様な光景にさらに混乱していると、横から「あ、こいつ」と剛ちゃんが呟く。




私の隣をするりと追い越すと、常連客の男性に加わって男をその場で無理矢理取り押さえにかかる。




「え、何」



「こいつ看板蹴った奴だわ」



「……え!」



「結構間近まで迫ったから分かる。背格好一緒だし、何より着てた服が同じ」



「何言ってんだ!やめろ、離せ!!こんな事して許されると思―――――」




怒鳴り散らす男の人へと、奈々子が一歩近づいていく。右手に酒瓶を握り締めたまま、もう片方の手でむんずと被っていた男の人のパーカーを剥いだ。




露になった顔に驚いてしまう。その人もまた見知った常連客の男性だったからだ。




既婚していて、いつも奥さんの愚痴を零しているあの男性だった。しかも取り押さえている男の人といつも一緒に呑みに来ていたのに、この組み合わせは一体何なのか。




剛ちゃんが「うわ」と思いっきり顔を顰める。




色んな事が一気に起こりすぎて情報処理が間に合っていない私を置いて、「元クソ上司かよ」と吐き捨てて、また私を混乱させたのだった。








これだけの騒ぎになり、警察を呼ばないわけにはいかなくなった。




仕方なく通報した奈々子の連絡を受けて、ここから一番近い交番に勤務しているみっちーと輝さんがすぐに駆け付けてくれた。




「酔って騒いだって感じじゃないですねー」




みっちーと輝さんは、剛ちゃんと常連客の男性から取り押さえていた男性を受け取ると、警察の威圧感を全面に出して「動機は何ですか?」と問い詰めた。





男性はしどろもどろになりながらも「何の事か分かりません」と言う。「この二人が突然襲い掛かって来て」と。




「この期に及んでまだしらばっくれんのか。昔からクソだったけど今もクソだなあんたは」




驚くべき事に、その常連客の男性は当時剛ちゃんの上司だった人らしい。剛ちゃんの言葉を一つ借りるとクソ上司になる。




そして、剛ちゃんと共にその男性を取り押せた常連客の人も顔見知りらしかった。剛ちゃんの言葉を借りると、いつか刺し殺すのではと言っていた人がその人だったらしい。




いつも三人で一緒に来店していたけれど、あれはお守り役として一緒に付いてきていたという事だろうか。きっとそうに違いない。




ストーカーかもなんて疑ってしまった事が恥ずかしかった。




「この人奈々子ちゃんに気があったんです」




押し黙って会話の流れを見守っていた彼が、ふいに口を開いた。




全員の視線が向くと、少しだけ気圧されたように俯いてしまう。それでも喋る事は止めずに「この人奥さんと喧嘩したのを良い事に、愚痴という名目で奈々子ちゃんに会いに来てました」と言う。




「でも酔った勢いで奈々子ちゃんに手を出した事があって、そういう事をするなら出禁ですって追い出されて凄く怒ってた」




ぼそぼそと喋る男の人の話を聞いて、そう言えば最近三人の姿を見て居なかったと思い出す。




「SNSで奈々子ちゃんの店を誹謗中傷していたのを仕事場で目撃しました。ここの店はくそだって。ぼったくりとか、マスターの性格が悪いとか、色々と。帰り際、駅のトイレでわざわざ服を着替えている姿を目撃してついていったら、お店の看板を蹴っている姿を目撃して」




言葉に詰まると、「以上です」と深々と頭を下げた。




みっちーと輝さんはなるほどと頷くと「だそうですけど」と再び男性へと詰め寄った。みっちーの威圧感も凄いけれど、背の高い輝さんに真顔で見つめられて男性は怯え切った様子で縮こまっている。




「こいつ前からそういう事してるよ。俺、元々この会社に勤めてたけど、下っ端の奴等はこいつともう一人の上司が酔った末に店の女の子に手出すから、そのお守り役で付いて行かなきゃいけなかったんだわ」




援護射撃をする剛ちゃんの言葉を聞いて、男性は一瞬鋭くこちらを睨みつけてきた。全く反省の色が見られない。




「被害届はどうする?」




みっちーが奈々子へと振り返る。暫く悩んだ末に「出す」と奈々子は言った。




「これだけ騒ぎになったし、むしろ出さない方が変な噂される。痴情のもつれとか思われたくないし」



「ですね。じゃあ署で話聞くって事で」




みっちーが男性の腕を掴んだ瞬間「うわああ!」と奇声を発して、暴れ始めた。制服の襟ぐりを掴んで男がみっちーを押し退けようと暴れてる。




「はいはい落ち着いて」




この状況に私は驚いて縮こまっているにも関わらず、みっちーも輝さんも大した事では無い様子で男性を宥めてる。




腕を振り回した拍子に警察官の帽子が吹き飛ばされても、襟ぐりを掴んで揺さぶられても「公務執行妨害になるよー」と軽く男性を取り押さえただけだった。




「応援要請して」



「はい」




輝さんが応援要請している間、みっちーは「落ち着いてー。深呼吸してみようかー」と逃がさないように壁際へと男性を押し付けた。




あまりにも暴れるので、そのうち奈々子が空き瓶を「煩い」と振り下ろすか、はたまた剛ちゃんが「往生際悪いぞ」と蹴り飛ばしたらどうしようとハラハラしたけれど、そんな事は無くて安心した。




応援要請をしてすぐに、パトカーがサイレンの音を鳴らして大通りの路肩へと何台も停まる。多くの警察官が駆け付けて男性はあっという間に回収された。





「悪いんだけど一応話聞かせてもらっても良い?」




それぞれへと顔を向けたみっちーに私達は静かに頷いた。知っている敬意だけを話す横で、奈々子は以前からこういう被害があった事を口にした。




他のお客さんが居なくなり、三人だけになるとセクハラすれすれの言葉を吐いてきたり、触ってこようとしたり。




そういうお客さんもたまにいるので、適当に受け流していたらしい。付き添いで来ていた彼もやんわりと阻止してくれていたらしかった。




問題が起きたのは、男性がグラスを割った時だったそうだ。




丁度奈々子は注文されたお酒を作っているところで、グラスが落ちた瞬間を見ていなかったらしい。




「割れた音がして顔上げたら、ごめん手が滑っちゃったって言われたんだよね。だから怪我してませんかってそっち側に回って、ガラスの破片回収しようと思って腰屈めたら、合わせて下から片手で胸触られた」



「………」




奈々子が淡々と言うので、一瞬何を言われたのか理解するまで時間を要した。




え、胸―――――とようやく言葉の意味を理解した瞬間、湧き上がる怒りで奈々子の握りしめる空き瓶を奪い取って、去り行く男性の背中目掛けて投げ飛ばしてやりたくなった。




最低、最低、最低。




「あ、ごめん当たっちゃったって全然悪びれてる感じじゃなかったよ。たぶん今までもそうやって触ってたんじゃない?こっちが訴えても事故だからって逃げられる感じ装って。ついでに言うと一緒に来てたもう一人の人もグルだよ。一緒ににやにやしてたし。この人だけは違うから」




奈々子は俯いている彼をちらりと視線に捉えて言った。




「そいつら昔からそうだよ。俺も一回目撃した事あるけど、やり方が上手いんだよ。訴えるって言ってた女の子も居たけど、結局二人で口裏合わせられて、ただの事故で当たっただけっぽく見せかけてたからお咎め無しって感じだったしな」




最低のオンパレードに、私は隣で地団駄を踏んだ。




どうして一緒に居る時に気づけなかったのか、どうして先に帰ってしまったのか、悔しくて堪らない。




「そういう事が何回か続いて、いい加減頭にきたから真顔で出禁ですって言ってやったの。え、何で?って白切ってくるのも腹立ったから、そのまま追い出してやった。そこからちょっとした嫌がらせが続いて、犯人は何となく分かってたけど看板の電源抜かれるとか、openの扉のプレートcloseにひっくり返されるとかその程度だから放っておいたんだよね」




子供みたいと、無視していたら奈々子からの反応が無い事に腹を立てたのか、看板を蹴るという行為にエスカレートしたらしい。




「この人が何度か止めてくれてたみたい」




この人、と彼をもう一度奈々子が視線で差した。





「口では言われて無いけど、誰かに声かけてる姿とか何回か見てた。出禁にしたのあの二人だけなのに、何で入って来ないんだろうって思ってたけど、嫌がらせししようとしてる上司見つけて「何やってるんですか」って声かけて追い払ってくれてたんじゃない?さすがに人目があったらやりずらいだろうし」




常連客の男性は奈々子から真っ直ぐ見つめられて、落ち着かなそうに視線を彷徨わせてる。




ああ、この人――――――――本当に奈々子が好きなんだなあ。




だから遠回しでも守ろうと動いていたに違いなかった。ずっとあの二人の下で働いていて、どういう事をする人達なのか良く知っていたから尚更だろう。




奈々子に目を付けたと分かって、何とか守れないだろうかと密かに奈々子のナイトに徹してくれていたのだろう。




出張はいつもばら売りのお菓子を買って来ると言っていたけれど、看板を見下ろしていたあの日買ってきたお菓子はすぐ駅近で買った物で、中身もばら売りじゃなく箱買いだった。




たぶんお菓子を渡すという名目で、奈々子に話を聞きたかったのかもしれない。




自分の知らない所で、何か嫌がらせを受けていないかと。




急ぎで買ったから、ばら売りでは無く箱買いになってしまったのかもと思うと何とも微笑ましかった。




辿り着いた先で、看板が変わっていてピンと来たに違いない。




「見張っててくれたんでしょ?だから捕まえられた」




遠巻きにこの人が見張っていたところに、あの男性が嫌がらせをしようとたまたま現れて揉み合いになったーーーーー奈々子の見解はそういう事らしく、「あ……う」と言葉に詰まっている所を見ると事実らしい。




なるほどね、とみっちーが頷いて「お手柄ですね」と素直に彼を褒めた。




私でも剛ちゃんでも、もしも同じ事をしていたらみっちーは怒ったに違いない「危ないだろ」と。でも全ての話を聞いた上、彼の事を素直に褒めてくれたみっちーの気持ちが有難かった。




「そのグルだって言ってたもう一人の男性も、触ったり何かしたりしてる?」



「してると思う」




剛ちゃんが深く頷いた。




「ちょっと色々聞いて回るわ。反省も無く当人は普通に生活してて、女の子だけ傷ついて泣き寝入りなんて許せねえしな」



「みっちー、ありがとう」



「みっちーはいつも可愛い女の子の味方なので」




そうかもしれないけれど、その一言はちょっと余計です。有難い事ですけれど。




じゃあ俺も一旦戻るわ、と手を上げたみっちーに「充、落とし物」と剛ちゃんが地面に落ちている革のカードケース入れを拾った。




みっちーがいつも大切に持ち歩いている物だった。さっき揉み合った末に胸ポケットから落ちたのかもしれない。




「お、さんきゅー。ていうか剛久しぶりだな。元気?」



「………」




いつも通りに軽く話しかけたみっちーを見て、ふいに剛ちゃんは拾い上げたカードケースを勝手に開いた。




ぎょっとしたのも束の間、何故か「ほら」と私にそれを差し出してくる。大事な物を受け取れるはずが無く「剛ちゃん!」と窘めると、二つ折りのケースを開いたその中が視線に留まってしまった。




大事な物を入れていると言っていた。小さい写真か、はたまたカードか、何が入っているかまでは分からなかったものの、しっかりとした透明フィルムの内側に押し込まれているのは紙だった。




それも綺麗な紙では無く、ノートか何かを破ったものだと分かる。小さく折りたたまれた端には切った拍子に出来た後が残ってる。




「剛!」




聞いた事もないようなみっちーの怒鳴り声が聞こえた。




いつもだったらびっくりするはずなのに、全く驚かなかった。




それどころか駄目だと分かっているのに剛ちゃんが差し出したそれを受け取ってしまう。みっちーが私の元へと急いで近づいてくる。奪い取られる前にフィルムの中から紙を急いで抜き出した。




開いてみると「けっこんとどけ」と一番上には書かれてる。




その下には柊みちかと幼げな文字が続いていた。




一度ビリビリに破った形跡がある。セロハンテープで一枚一枚、細かい切れ端までしっかりと元には戻されているけれど。




「…………」




失くしたと思ってた。引っ越しの途中でどこかに置いてきて、もう一生見つからないと。




でもどうしてみっちーが持っているのか分からない。




あの日、確かに私が持ち返った物だ。風に飛ばされたその紙を追って、車の前に飛び出した。でもちゃんと手元に戻って来たものだったはず。




それにこんなに破れているのはどうしてなのか。破り捨てた記憶なんて無い。




私はもしかして、大事な記憶をどこかに置いてきてしまったんだろうか。




あの日、みっちーが突き飛ばしてくれたから車には轢かれていないと思ってた。でもあれも全部私が勝手に作り出した偽物の記憶なの?




私はあの時車に轢かれてて、一時的にみっちーの事を忘れてしまっていたとか?それでこんな紙知らないと破り捨てたんだろうか。分からない。自分の記憶に自信が持てなくなってきた。




「どういう事?」



「………」




ぐっと噛み締められた唇は、固く固く閉ざされて開く事は無い。




そんなみっちーの顔は大人になってから初めて見たものだった。




「どういう事」




今度は奈々子が剛ちゃんへと問いかける。




二人の間に沈黙が落ちて、「俺のせい」と剛ちゃんが言う。




いつかも言っていた、みっちーがこんな風になったのは自分のせいだと。有耶無耶になったままその続きを聞けていなかった。




「剛」




もう一度みっちーが剛ちゃんの名前を呼んだ。




今度は優しい声音だった。良いから言うなと言いたげに。




剛ちゃんもまた、苦しい表情をしてる。




「充にもちゃんと伝えてねえ事があるから。だから今、全部話す」




暫くの沈黙が落ちてきて、自分にもみっちーにも言うようにして剛ちゃんは口を開いた。

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