15-2


「そう言えば、結婚式の時何か言いかけてたよね」




視界の隅でグラスの縁に口をつけた剛ちゃんがピタリと動かなくなった姿が見えた。一瞬、時でも止まってしまったように。




その緊張感に包まれる表情は、みっちーの時にも見たものと良く似てる。




「充に、って。もしかしてみっちーに何か伝えたい事があったの?」



「そんな事言ってねえけど」



「え、うそ。充にって絶対聞こえたよ。みっちーと喧嘩してるの?」



「だからしてねえし」



「それかみっちーがもしかして、何か嫌なことした?」



「は?」



「気づかないうちに嫌なことしてたかもしれないって」



「充がそう言ってたのか」



「あ、うん。二人は喧嘩してるの?って聞いたら喧嘩した覚えはないって」



「意地になってるなら良い大人なんだから、たまには折れたら?」




今まで黙って会話の流れを見届けていた菜々子が、そこで鋭く切り込んだ。




剛ちゃんはグラスの中身を意味もなく揺らすと「別に。まじで喧嘩してねえし」とまた消え入りそうな声で呟いた。




ふいに隣から立ち上がる気配を感じて「どこ行くの?」と首を傾げる。




仕事用らしいバッグを掴むと「帰るんだよ」とさっさと会計を済ませてしまう。




え、これからって時に?




「明日、つうか今日も仕事だからな」




今日ってもう時刻は朝方に近いけれど。




同い年なのにタフだなあと感心しながらも、みっちーとの事について何も聞けていないのにと唇を尖らせる。私の顔を見た剛ちゃんは「何だよ不細工」と子供みたいな事を言う。




その年齢になってもそこまでハッキリと女性に向かって不細工と言える神経が凄い。




「みっちーと何かあったなら、手伝える事無いかな」



「はあ?ねえし、喧嘩もしてねえよ。しつけえな」



「じゃあ何でそんなに辛そうな顔するの」



「何で何でうるせえな。仮に喧嘩してたとしてお前には関係ないだろ」




それはそうかもしれないけれどと顔を顰めると、「その言い方は無いでしょ」と菜々子がカウンター裏から酒瓶を肩に押し当てた。さすがにそれで強打することは無いとは思うけれど、剛ちゃんも少し怯んでる。




「とにかく、まじで喧嘩とかじゃねえから」




それ以上聞いてくれるなと言わんばかりな強い口調でそう言うと、さっさとバーの入口へと向かってしまう。




「あ、ちょっと待って」



「何だよ」




今にも外へと出ていきそうな背中を呼び止めて、バッグに入っていた補強コートを押し付けた。とりあえず気休め程度にしかならないけれど、お店に来れる時まではこれで何とか凌いでもらうしかない。




手の平に押し付けると、剛ちゃんは見慣れない物にでも遭遇したように顔をしかめてる。




そうか、こういうの普段使わなければ分からないよね。




「これ、割れてる爪とか割れそうなところに塗っておいて。こうやって」




キャップを外して剛ちゃんの片手を取った。人差し指の爪に筆を滑らせる。艶々とした爪は乾くのと同時にまた元の状態へと戻っていく。




「都合が合う日に予約してね。出来れば早めが良いと思う」




そのままにしておくと痛い事になりそうで、このまま帰らせるのが申し訳なくなるほどだ。




呆けていた剛ちゃんは補強コートを強く握りしめると「そのうち入れとく」とぶっきらぼうに答えて店を出ていった。




菜々子がカウンター裏でやれやれと肩を竦めてる。




「あいつは昔からほんと変わらないね」




確かにと頷くと「みちもだけどね」と言われた。




どうしてだろう、剛ちゃんと同じように言われるのは何だか納得がいかない気がする。




「二人がちゃんと仲直り出来ると良いんだけど」



「剛はともかく、みっちーがしらばっくれてるのって珍しいね。それか気にしてるのは剛だけで、みっちー的には記憶にも残らない程度の出来事だったとか」



「ありえなくは無いけど」




でも、そうかもしれないと言いにくいこの感じ。




だって剛ちゃんの話を出した時、明らかにみっちーの空気が変わったのを肌で感じた。怒っているわけでは無さそうだって。あれを言葉で表すなら、たぶん緊張だと思う。




うーんと、唸りながらも残りのお酒を飲みほした。




暫く奈々子のお店で時間を潰し、太陽が昇り始めて少し時間が経ってから腰を上げた。




「ストーカーもほどほどにしないと捕まるよ。相手、警察官だし」



「バレないようにやってるので大丈夫。ちなみにまだ一度も会えてないんだよね」



「それ、嫌な気配を察して別ルートで帰ってるんじゃない?」




私もそれが濃厚だなとは思ってたけど。




「いくらだっけ?」



「ああ」




バックから財布を取り出そうとすると、奈々子は「いいよ」と外に出していた立て看板を回収する。奈々子もこれから店を閉めて帰宅するのだろう。




「え、何で?駄目だよ」



「じゃなくて剛がみちの分も払って行ったよ」




―――――え、いつの間に。




「全然知らなかった」




仕方ねえからお前の分も払ってやるよとか、剛ちゃんなら言いそうなものなのに。




「意外なほど、スマートな払い方だったね」




奈々子はおかしそうに笑いながらもグラスを片付け始める。




「大体頼んでるお酒の種類があからさますぎ」



「どういう意味?」



「別に何でも無い。良いからもう行きなよ。ストーカー、遅刻するよ」




しっしと軽く片手で追い払われて首を傾げる。どういう意味だろうともう一度考えてみたけれどやっぱり分からないままだった。




ご馳走様、また来るねと手を振って外へと出た。周りを見ると街中は人通りが多くなっていた。車道を走る車の数も相変わらず多い。




一日の始まり。朝の通勤通学時間の光景を完徹した頭でぼんやり見つめていると、反対側の車道を自転車が軽快な速度で通りすぎていく。顔を上げると私服姿のみっちーだった。




ーーーーあ、と思う間には私も急いで駆け出していた。




駅まで自転車で向かって、そこから乗り換えるのかと思えば、こういう時に限ってどうやらそのまま自宅マンションまで帰るらしい。




身体作りにしても丸一日働いて何てタフさなんだろうと改めて感心する。




線路沿いを走り抜けて行くみっちーの自転車を追いかける。比較的ゆっくり走る自転車には何とか追い付く事が出来た。




自転車の荷台に指をかけて、引っ張ってもらいながらも走り続けた。微かな違和感と重みを感じたのか、振り返ったみっちーが私を見てぎょっとした様子で目を見開く。




「ーーーーーぎ」




夏の蝉の一声みたい。




喉の奥から恐怖の悲鳴を上げたみっちーが大きな叫び声を出す前に、「止まってみっちー!」と私の方が早く大きな声を上げた。




「な、なな、なな、何して」




緩やかな速度で止まってくれたのでつんのめって自転車にぶつかる事は無かった。相当怖い思いをしているはずなのにこの優しさ。もう本当に、胸が苦しい。まさか会えるとは思わなかった。




「何してんの!?」



「うん」




その事についてはちゃんと話すから。




「ごめんね」



「え」




ごめんね、先に謝っておくしこんな失態は出来ることなら犯したくなかった。




引かれるかも、嫌われるかもと思ったけれどもう我慢出来そうにない。




息を落ち着かせようと呼吸する度、気分が悪くなってきた事には気づいてた。




寝不足に押し込んだお酒は、一気に走ったのも合間って喉のすぐそこまでせりあがってきてる。




みっちーが警察官の制服を着ていなくて良かった。いや、良くは無いけれど。だってこれからとんでもない事をしでかそうとしてる。




パーカーの襟元を引き寄せた瞬間に「うおえ」と女らしからぬ汚い声が開いた口から漏れた。もう駄目、吐く。




焦る思考ではさすがに道端で吐くのはまずいという事しか考えられず、みっちーの服を引き寄せていた。





絶対これは嫌われる。半ば半べそをかきながらごめんごめんと繰り返す私の背中に大きな手の平が回った。




背中を擦る手の平はとても優しかった。吐きそうになっている女を前にして、微塵の動揺すら見せない。自分の服に吐瀉物を引っ掛けられそうになっているというのに。




「気分悪い?吐いて良いぞ」




叫び声を上げるかもと思っていたのに、頭上から落ちてきた声音は冷静で優しい。




残った少しの理性で頑張って耐える私を抱き締めると「良いから。我慢すんな」と抱き寄せられる。ぐぐっと吐く前、特有の胃の圧迫感。




頭上から照りつける太陽の光が眩しい。これから一日の始まりを迎える歩行者の方々は、私共々みっちーにも冷たい視線を向けているに違いない。




それが酷く申し訳ない。気休め程度に通過した電車のガタンコトンという音に重ねて「うええええ」と盛大に吐くという最悪な再会を果たしたのだった。



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