意外にも
15
飲み屋のお店が連なる一角は、夜になると活気づく。
他の店舗の明かりがぽつぽつと消えていく中、この通りから漏れる光はお昼みたいに眩しい。
それぞれ客寄せのために入り口付近のライトはイルミネーションのようにチカチカと光っていたり、他とは違う色合いのライトで照らされている中、奈々子がマスターをしているバーだけは落ち着いた色合いで、控えめなライトが入り口を真っ直ぐ照らし出しているだけだった。
吸い寄せられるままに扉を開くと、カウンター席には数人のお客さんが座っていた。
奈々子と楽しい話で盛り上がっていたお客さんは、私の姿を振り返って見つけると「みちちゃんお疲れ様」と挨拶を交わしてくれる。
良く見かける男性客三人で、どうやら同じ会社に勤めている上司と後輩と言う組み合わせらしい。
上司だというお二人は見た目的には少し年のいった方達で、後輩の方とは大分歳が離れているように見えた。後輩の方は私や菜々子とそこまで年齢は変わらないかもしれない。
仕事終わり何度か奈々子のお店に顔を出すようになってからというもの、私も常連客の仲間に入れて貰えたらしい。
「お疲れ様です」
頭を下げると、奈々子の目の前の席を譲って貰えた。
「良いんですか?せっかくお話し中だったのに」
「ただの愚痴を聞いてもらってただけだから良いんだよ」
「この人奥さんと喧嘩中なんだって」
常連客同士で慰め合いながらも「年をとっても肩身が狭いんだよ我々は」とカクテルグラスの中身を煽ってる。
上司のお二人は結婚していていつも奥さんの愚痴を言ってるイメージが強い。それをもう一人の若い方が静かに聞いてあげている。後輩の方はいつも聞き手側に回っているように思う。口を挟むこともなく、ただただ話を聞いてあげている。
若そうなのに出来た方だなと見るたび感心した。
喧嘩をしている原因は分からないけれど、それなら早く家に帰って謝罪した方が良いんじゃないだろうか。
「ほとぼり冷めるまで待った方が良いの。下手に突くとまた火傷しかねないからね」
「そうそう。こっちが下手に出て謝ると調子のるんだよ」
「そうなんですか?」
首をかしげた私を見て独身の男性は困ったようにビールを煽った。既婚者の二人が「ねえ菜々ちゃん」と言いたげに目配せして、菜々子はやんわり肩を竦めるだけであまり介入しないようにしてる。
「謝って仲直りとかじゃないんですか?」
「そんなのいつの時代の話だろうって感じだよ。謝ったら謝っただけ嫌みが返ってくるんだから」
「知らん顔して、ちょっと美味しいランチでも行ってきなよって金渡す方が円満に解決できるよなあ」
なるほど、そういう接し方もあるんだなと「勉強になります」と頷いた。私がもしもみっちーと喧嘩したならば、その日のうちに解決出来るまで話し合いをしてしまうかもしれない。だって次の日に持ち越すのって嫌だから。
でもそれが正解では無いのだと一つ学んだ。
「いくつになっても低姿勢で亭主を上手く立ててくれる嫁が良いよ」
「本当にねえ」
「いつの時代の話です?同じ立場でいられない旦那なら捨てた方がマシ。面倒くさいですそんなの」
「奈々ちゃんはこれだから」
「美人だから許しちゃうんだけどね」
「セクハラですよ」
聞いてるこっちがハラハラするような会話を奈々子と常連客の男性達は交わしてる。このまま喧嘩に発展するのではと慌てるけれど、そんな事は無く、ほぼほぼ常連客の男性達が一歩引いてあげている。
まるで女王様みたいだ。奈々子が超絶美人で、その女王様の立ち位置も様になっているから凄い。私ではこうはいかないだろう。
「何飲む?」
言い合いすれすれの会話を半ば強制的に奈々子から終わらせると、まだ何も届いていない私の目の前を顎で指して問われた。
「ウーロン茶でお願いします」
「また今日もストーカー?」
「変な言いがかりはやめてください」
「うちの店を犯罪に使わないで欲しいんだけど」
「酷い」
みっちーの部屋へと一度足を踏み入れてからと言うもの、何度行きたいと連絡を入れても電話に出なかったり、電話に出たとしても「朝まで仕事なので」と断られたり。
電話に出ているのだからそもそも業務は終了しているでしょうと思うと腹立たしい。
勢いでもう一度みっちーの住む最寄り駅まで向かった事がある。「ついた」と電話をかけると「悪い、ちょっと出てるから迎えに行けないわ」と断られてびっくりした。みっちーなら来てくれるものだと思っていたから。
「じゃあ部屋の前で待ってる」と気持ちを切り替えて言うと、「今日は帰れそうにねえんだわ」と電話を切られた。あれは本当に酷かった。
暫く待ってみたけれど、みっちーは迎えに来てくれず泣く泣く(半べそだった)でタクシーに乗って自宅マンションまで帰った苦い記憶が鮮明に蘇ってくる。
あんな悲しい思いはもう二度とごめんだと思うけれど、みっちーとの残されたお付き合い期間が刻一刻と迫ってきてる。
焦った私は、帰り道必ず通るであろう大通りから一本外れた奈々子のお店で待ち伏せをする事に決めた。
みっちーは自分の出勤日や終わる時間をハッキリと教えてくれない。全て私を自らに近づかせないためだろう。
けれど心優しき友を私は密かにゲットしていた。輝さんという寛大な警察官だ。
輝さんはみっちーの出勤日はさすがに教えてはくれなかったけれど、三交代制の勤務だと言う事を教えてくれた。勤務時間は朝から始まり翌日の朝までかかるらしい。そこから交代となり非番に入る。
非番だからとデートしてくれたみっちーだったけれど、あれは激務終わりの後だったのだと知って本当に申し訳なくなった。全然大した事無い顔をしていたけれど、相当眠たかったのではないだろうか。
その日が非番なのか、はたまた朝までかかる仕事なのかは分からない。それでも朝まで待てば、この道を通ってみっちーが帰る可能性は高いという事だ。
「良くやるよね」
奈々子はグラスに砕いた氷と烏龍茶を注いで手渡してくれた。キンキンに冷えた烏龍茶は奈々子からの遠回しな冷静になりなよというメッセージな気がしてならない。
私、物凄く冷静なのに。
「そんなに毎回毎回待ち伏せしてないよ」
休みの前日、仕事終わりにそのまま菜々子のお店へと来て、喋りながらも時間を潰す。太陽がビルの隙間から上り始めた時間を狙って大通りへと出る。
計2回程、待ち伏せしてみたけれど未だに一度もみっちーと遭遇出来ていなかった。
帰る時間帯が微妙にずれてしまっているのか、もしくは別のルートで帰っているか。
仕事終わりには必ず交番の前を通って、素知らぬ態度で「お疲れ様です」とみっちーに声をかけている。つまりは確実に出勤しているのを確認済みだという事だ。
「何?みちちゃん思い人待ちでもしてるの?」
「そうなんです。でもなかなか時間が合わなくて」
「そういう時期が一番楽しいよなあ。懐かしいわ。俺にもそんな時期があったな。追いかけてるうちは燃え上がるんだけど、捕まえた瞬間冷めるんだよな」
「何言ってるんですか?どの時期でも全部楽しいですよ。一緒になれたらもっと楽しいし燃え上がるに決まってます」
真顔で返すと、隣の男性客は「みちちゃんの愛はなかなか重いなあ」と肩を竦めた。
常連客の男性達は暫く飲んでいたけれど、日を跨いだ辺りで「嫁も寝ただろうし、今日は帰るよ」と立ち上がった。
独身の男性は「2人で帰すの心配だから」と一緒に立ち上がった。確かに覚束ない足取りでなかなか危なっかしい。
去り行く背中が何だか小さく見えて、本当に肩身の狭い生活をしているみたいで少しだけ哀れになった。
朝には仲直り出来ると良いですねと手を振ると、健闘を祈っててと涙を拭う振りをしながらも肩を並べて帰って行った。
「賑やかで良いよね。世間話も楽しいし」
男性客が居なくなると、一旦お店の中は私と奈々子だけになった。奈々子は自らのウーロン茶が入ったグラスを持って、お店の方へとやってくると私の隣へと腰を下ろす。
微かに目を伏せると「そうだね」とテーブルへと頬杖を突いた。
伏し目がちにした奈々子は同性の私でもドキリとしてしまう程綺麗だ。
もう残りが少なくなったグラスの中に、奈々子はまたカウンター裏へと戻って新しい烏龍茶を並々と足してくれた。
「みちって下戸だっけ?」
「違うけど沢山飲めるわけでも無いよ」
「飲まない理由があるの?」
「だって私が待ち伏せしてたらみっちー絶対逃げるから。いつでも走って追いかけられるように飲まないの」
見てよ、と私はスツールの下からヒールが全く無いパンプスを見せた。この走りやすさ重視の靴。
奈々子は「あー……」という顔をした。聞いて損したと言いたそう。
「そう言えば、剛ちゃんってここに飲みに来た?」
「剛?まだ来てないけど。上司も後輩も同期も全員連れて来てって言ったのに」
「仕事終わりにまで会社付き合いするの嫌だってあの時言ってたよ」
サラリーマンだと言っていた剛ちゃんの言葉を思い出しながらも、「伝えたい事があったんだけど会えなくて」と肩を竦めた。
連絡先も知らないから道端でバッタリ出くわせたらとは思っていたけれど、そもそも生活圏内が一緒なのかも怪しい所だ。
奈々子が小首を傾げた瞬間、バーの扉が開いた気配を感じた。振り返った奈々子が「あ」と瞬きをする。
肩越しに振り返った私の目にも、スーツ姿の剛ちゃんの姿は映っていた。
揃いも揃って「あ」と間抜けな声を発し、お店の中が一瞬静まり返る。気を取り直して立ち上がった奈々子が「いらっしゃいませー」と愛想程度の会釈をした。
――――――噂をすれば何とやら。
「何でお前居るの?」
空いているスツールがいくつかある中、剛ちゃんは断りも無く私の隣へと腰を下ろしてきた。
謝罪し合った仲なので、次会える時はもう少し良い関係になれるかもと思っていたのに相変わらずだ。何かしら言わないと気が済まない性格なんだろう。平常心、私は大人。
「居たらいけませんか?親友のお店に飲みに来てるだけです」
心の内を冷静に保ちながらも、それとは真逆の刺々しい声が出た。隣に座っている剛ちゃんが顔をしかめたから、分かるほどの声色だったんだろう。気をつけようと思っているのに。
「居たらいけねえなんて言ってないだろ。飲みにって言ってるけど飲んでるの烏龍茶じゃねえか」
「烏龍茶だといけないんですか?ここのマスターは無理矢理お酒を進めてくるような人では無いんです」
「何なんだよその喋り方。俺スクリュードライバー」
隣から聞こえたお酒の名前に言い返す言葉が引っ込んだ。
「何だよ」
「テキーラロックとか飲みそうだと思ってたから意外だと思って」
剛ちゃんのお酒事情は知らないけれど、どちらかと言えばお酒が強そうに見える。サラリーマンだからそういう付き合いも多いはず。
「そんな事したらまともに仕事出来なくなるだろ」
「勝手なイメージで」
「そんな時もあったけどな」
あれは正直きついよと、いつかを思い出すように息を吐いた。
それから「ちょっと付き合えよ」と誘われる。
何に?と首を傾げると、剛ちゃんがメニューの中に並ぶお酒の場所に視線を留めているのに気がついた。
「え、私今日は飲まない」
「何しにバーに来てんだよ」
「奈々子に会いに」
「いつでも会えるだろうが。良いから付き合えって」
半ば強引にカンパリオレンジを頼まれて呆気に取られた。それが好きだとも言って無いのに。
奈々子がカウンター越しにどうする?と視線を投げてくる。作るのは奈々子なので、いくらでもジュースに変えられるはずだ。
けれどみっちーとの仲について、色々聞きたいことがある。
「じゃあ一杯だけ」
スツールにしっかりと腰かけ直すと、剛ちゃんは勝手に頼んでおいで「飲むのかよ」と突っ込みを入れてきた。
せっかく付き合ってあげるって言ってるのに。
剛ちゃんは私の隣でペース配分も考えず、2杯3杯と続け様にお酒を頼んだ。そんなにハイペースで大丈夫?と顔色を窺ったけれど、さすがと言うべきかケロっとしていた。
若かりし頃は、数え切れない程吐くまで飲まされたらしい。上司からの申し出は断れないもので、もう無理でも嫌でも目の前の液体を胃に押し込むしかなかったと苦い表情で言った。
「大変だね」
「もう今はそんな事も無いけどな。今の時代でやったらパワハラだろ。でも耐えきれなくなって一回仕事辞めてる」
「そうなんだ」
「初めて入社したところがそういうやり方だったんだよ。ほんとくそだわ。パワハラのオンパレード。仕事終わりは上司の面倒な飲みに付き合わされる。飲め飲め言われるのも最悪だけど、一番嫌だったのが飲んだあと面倒な上司のお守り押し付けられること」
「面倒って?」
剛ちゃんは昔を思い出したのか、苦い表情をしてカウンターに頬杖を突いた。
「飲んで女にちょっかいだしたり、セクハラすれすれの言葉吐いたり。行きすぎると触ったり軽く叩いたり。そういうのをバーとかでやる奴らの面倒みろって。横からそろそろ帰りましょうよって声かけると、これだから若者は付き合い悪くて困るんだよって、こっち落として自分良いように見せてきたり。そのうち手が出そうになって辞めたわ」
聞けば聞くほどなかなか酷い話だと唖然としてしまう。
お酒の力の怖いところはその人の本性を引きずり出してしまうことだと思う。
「俺のいくつか年上の先輩が物凄く気の弱い人で、そいつらの餌食になってたな。うんうんそうですね大変ですよねって、いつもくそな上司を上手に立てて頑張ってた。俺は辞めたから知らねえけど、ああいう人って溜め込みすぎて爆発するとやばいタイプだよな。俺とか同期は上司の愚痴言ってたけど、その人から聞いた事無かったわ。そのうち我慢出来なくなって刺し殺しそう」
「怖いよ。今の仕事は大丈夫?」
「面倒な奴は一人や二人くらい居るけど、前よりずっとマシだわ。辞めて正解」
ひとしきり話し合えると、剛ちゃんは長いため息を吐き出して「そう言うお前は仕事どうなんだよ」と言った。
「順調なのかな。本当に良くしてもらってるよ。週休二日制だし、お客さんも良い人ばっかり」
「ネイリストだっけ?男も受けるのか?」
「今は男の人でもネイルする人多いんだよ。先週も二人来てくれたかな」
お任せでと言われて少しだけ驚いた。アートネイルを施してあげると、満足してもらえたらしく「また来ます」と頭を下げて貰えた時はとても嬉しかった。
剛ちゃんは「へえー?」とカウンターに頬杖をつくと、片方の手を私に向かって突き出してきた。
みっちーの手とは少し違う、剛ちゃんの手は意外にも細くて綺麗な手だった。みっちーはもう少し男の人らしい骨ばった指先をしてる。
「ここの爪がすぐ割れて痛いんだよ。どうにか出来ねえの」
「剛ちゃんの爪って薄いんだと思う。男の人の爪なのに珍しい。割れちゃうと痛いよね」
言ってる傍から、剛ちゃんの突き出した人差し指は中間辺りに深い亀裂が入っていた。補強してあげられたらと思ったけれど、生憎道具は全て美容室に置いてきてしまった。
普段持ち歩いている時もあるけれど、こういう日に限って持ってきていない。
「今度補強してあげようか」
爪先に触れて一本一本確認していく。他にも危ない場所がいくつかあった。叶うならばにこちゃんマークのネイルとか書いてあげたいけれど、営業職にそれは駄目だろう。
じわっと触れていた指先が熱くなった。
顔を上げると剛ちゃんが何故か固まったまま、触れた指先を凝視してる。あまりにも動かないから酔いが回って失神でもしてしまったのだろうかと疑う程だ。
「剛ちゃん?」
「え、何」
「何じゃなくて、補強しようかって」
「ああ。それで割れなくなるなら」
勢いよく手の平を引かれて触れていた指先が離れた。そっちから突き出してきたくせに乱暴すぎる。
「お前の店知らねえんだけど」
「店じゃなくて奈々子のお店でも良いけど」
またみっちー待ち伏せ隊として、ここに来る予定だし。
それに剛ちゃんの出勤時間は知らないけれど、お店が開いている間には間に合わないのではと思った。
残っていたグラスを煽ると、剛ちゃんは「もう一杯」とおかわりを頼んでから、追加でアプリコットフィズも注文した。届いた後者は何故か強引に私に押し付けてくる。
一杯って言ったのにと思いながらも渋々口をつける。
「お前の店に行くから店の住所教えろよ」
「来れるの?無理しなくて良いのに」
「サラリーマンでも休みはあるからな」
なるほどと頷いてお店のカードを財布から出して渡すと、「ここから近いのか」と納得して名刺入れへと押し込んでいた。
居ない日もあるからお店のホームページか電話でネイルの予約を入れてと言うと、剛ちゃんは分かったとすぐに頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます