私、みちかちゃん

14

迎えに来てくれなければ来てくれないで、一生待つーーーーーという我儘はさすがに時間帯的問題と、自分の安否的問題にも繋がるので少し待ってみっちーが現れなければタクシーに乗って帰ろうと思っていた。




みっちーの住んでいる駅は、私の住んでいる駅と大して変わらず賑やかさの欠片も無い。




無人駅では無いけれど、駅の中に沢山のお店が並んでいるという事も無く、チェーン店のパン屋さんが丁度シャッターを閉めている所だった。




改札を下りると降り口は二つあり、どちらに行けば良いか分からずにその場で立ち尽くした。




煌々と光る自販機につられて足を進めてお茶を二本購入してみる。意外にもバックに入れるとずっしりとした重みが増した。




去り行く電車の姿を窓越しに見送ると、不服そうに階段を一段一段踏みしめながら上がって来るみっちーの姿が片方の降り口から見えて少しだけ驚いた。




来てくれたんだ、という言葉を慌てて飲み下しておく。




来てくれて当然ですという顔をしておかなければ。




私の前までやって来ると、みっちーは何かを言おうと口を開いた。それを急いで「私みちかちゃん」と塞いでおく。




「今、あなたの目の前に居るの」



「……こえーんだわ本当に」



「無理矢理言葉を塞いでおかないと、今なら電車があるから帰れって言われそうだったから」



「すげえな!俺が言おうとした事一字一句間違って無い!はい回れ右―お家にお帰りなさい」




私の身体をくるりと改札側へと戻したみっちーの腕を両手で捕まえる。子猿が母猿にしがみ付くような体勢になってしまったけれど、今はそんな事どうでも良い。




「こっちから来たよね。じゃあこっちに下りれば良いの?私、迷子癖があるからこんな場所から一人で帰れない」



「迷子癖良い様に使ってくるな?ならタクシー代出すからタクシーで、ってこら!」




みっちーの腕を掴んだまま、階段を軽い足取りで降りて行く。目の前に数台停まっているタクシーを見て見ぬ振りしながらも、こっちかな?と適当にその横を通り過ぎていくと、盛大な溜息が聞こえてきた。




それから掴んでいた腕事、その場に引き留められた。




「男の部屋に来る意味ちゃんと分かってます?しかも期間限定と言えどお付き合いしてる身ですよ?彼氏と彼女が一つ屋根の下で一緒に居て、しかもこの時間帯、何が起きるかちゃんと想像」



「してますよ」



「………」




ことさらハッキリと告げながら「ちゃんと想像してる」とみっちーと身体事向き合った。




固唾を飲むようにして、みっちーが続く言葉を待っている。




想像はしているし、どちらかと言えばその展開を待っている方だけれど、緊張していないと言えば嘘になる。なのにどうしてみっちーの方が緊張したような顔になっているのか。




「やっぱり駄目だ。タクシー乗って帰れ」



「嫌だよ。せっかくここまで来たのに。みっちーの分のお茶もさっき購入したところです」



「せっかくって、勝手に来ただけだし。しかも最寄り駅の一駅先で降りただけだよな?せっかくって程遠くもねえんだわ。お茶はーーーー有難くこの場で頂きます。ご馳走様です」



「気持ちの問題だよ!ここまで来るのに結構勇気を振り絞って来たんです!そして部屋に入れてくれないとお茶は渡しません」



「嘘言うんじゃありません!メリーさんごっこ楽しんでただろうが!お茶いらねえから帰りなさい」



「酷い!!」




声を上げた私に、みっちーは慌てて「静かに!」と一本指を口元へと押し当てる。階段を降りて来る人が数人、私達を怪訝そうな表情で見つめて去っていく。




完全に修羅場中のカップル扱いだ。




「ちょっとだけ入れてくれても良いじゃん。みっちーがどの辺りに住んでるのか知っておきたいだけだよ」



「もう発言がストーカーのそれなんだわ。一回知ったら何度も何度も来そうじゃん」



「そんな迷惑な事しません!……たぶん」



「たぶんって……」




お願いポーズを取りながら「ちょっとだけだから」と懇願する。




ここまで来て、どこにも寄らずに帰れだなんてそんな事出来るはずが無い。むしろみっちーの顔を見ていなければ、まだ諦められたかもしれないのに、迎えに来てくれたんだもん。だったら絶対に諦められない。




みっちーは肺の中に溜め込んだ全ての空気を吐き出す勢いで溜息を吐いた。




長い溜息がようやく最後に「ふうううう……」とか細くなって聞こえなくなると、「分かりりました」と顔を上げた。




「まじでちょっとだけだからな。みっちーの個人宅とかそうそう上がれる場所じゃねえんだぞ本来は!」



「じゃあ異性で訪ねるのは私が初めて?」



「あーそれはーどうだったかなあー」




うーん、と首を傾げたみっちーの背中をいつかのようにバックで思いっきり強打した。




無理矢理押し掛けておいて、社宅とかだったらどうしようという不安が今更沸いた。




警察官の社宅というものがどういうものかは分からないけれど、女性は出入り禁止とかだったら非情に困る。そのルールを破らせてしまうくらいなら帰った方が良いに決まってる。




「普通のマンションだから」




私の不安を読み取ったのか、みっちーはポケットから鍵を取り出して軽く振った。案内されたのは私と同じく駅近のマンションだった。




オートロックは無いものの、新しく綺麗なマンションだ。そもそも住んでいるのが警察官なのだからオートロックはいらないかもしれない。私もマンション入り口で弾かれる心配がないし。




「勝手なイメージで社宅とか、凄く古いアパート住まいを想像してた」



「そういうのもあるけどな。安いし悪くは無いですよ」



「みっちーは住まないの?」



「入社一年目は住んでたけど、寝に帰るだけとは言え社宅だと心休まらないから暫くしてからこっちに引っ越した。仕事場からも近いし」



「なるほど」




マンションの正面玄関から入ると部屋数と同じであろうポストがいくつか並んでいた。そこを素通りすると、中にあるエレベーターへと乗り込んだ。




3階のランプを灯したみっちーがまた長い溜息を吐いてる。狭い箱の中、当たり前にその溜息は聞こえていたけれど、心のガードで聞こえない振りをしておく。




輝さんが「やっぱりストーカーだったんですか」と想像の中で絶句してる。違います、本当に違うんです。




でも冷静になって自分の行動を考え直すと、自分がされたらとてつもなく怖い行為だとは思う。みっちーにされるのならば嬉しいけれど。




外と面したマンションの廊下へと辿り着くと、エレベーターから一番遠い部屋の扉へと鍵を差し込んだ。部屋の明かりはまだついたままで、たぶん急いで出て来たであろう事が窺えた。




「言っておくけど何も面白いものはありませんからね」




どうぞ、と渋々ながらも促され丁寧に頭を下げて部屋へと上がった。




ヒールの無いパンプスを玄関先に並べると、みっちーの靴が隣へと揃えられる。そんな事すら嬉しいと思ってしまう自分がいた。




入ってすぐ脇にキッチンがあり、奥に二部屋程ある至って普通の部屋だった。寝に帰るだけと言っていた通り、乱雑としていそうな性格なのに必要最低限の物しか置かれていない。




グルリと室内を確認していると、部屋に入れた事に気が緩んだのかお腹が鳴った。




隣に立っていたみっちーが「食べて来てねえの?」と首を傾げる。




「仕事終わりそのまま飛び乗って来たので」



「何かって程何もねえけど、さっき買ってきた食材ならありますよ」



「じゃあ私が作る」



「ええ……」



「ええって何」



「何かやばい薬とか入れられそうだなと思って。惚れ薬みたいな」



「そんな物がこの世にあるなら、私は全て買い占めてみっちーが口にするありとあらゆる物にぶち込んでる」



「まじでそんなやばい薬は金輪際作らないで頂きてえわ」




両腕を組んで肩を震わせたみっちーは「何でも使って良いよ」と言った。




言われた通り、冷蔵庫を開けると意外にもきちんとした食材が入っていた。もしかしてちゃんと自炊しているんだろうか。凄い、さすがみっち………。




「女が居るんじゃないですよね」



「何の話?情緒不安定すぎない?」



「食材がこんなに入ってるから、もしかして作ってくれる女の人が居るのかと思って」



「凄い妄想しますね。そんな修羅場嫌ですよ。こう見えて意外と自炊するんですよ。友達に料理が上手い奴が居るもので。買い食いばっかだと飽きるじゃないですか、有難いけど毎度揚げ物食ってる感じ」



「それは分かります」



「だからたまに自炊して身体の調子整えてる感じですね。買い食いもするけど」



「そういう事でしたら、毎日私がご飯作りに来るよ」



「今の時間帯って面白いテレビってあったっけー?」




私の言葉を無視して奥の部屋へと入って行ったみっちーは、リモコンを手に取るとテレビをつけて音量をやや大きくした。ここに惚れ薬があるなら瓶丸ごと全部料理に注いでやるのに。




時間帯も時間帯だったので、残っても明日またみっちーが食べられるようにとミネストローネを作る事にした。




野菜を切りながらもこの時間が不思議に思えてくる。みっちーが住んでいる部屋に居て、同じ空間に滞在してる。




あの頃は夢にも思わなかった時間が今流れてる。

ぼんやりしながらも野菜を切っていたら、包丁が微かに指先を掠った。




「いた」




鋭い刃物で切られる痛みは独特で嫌いだ。紙の端で切った時の痛みと良く似てる。




微かに呻いた私の声を聞いて、みっちーは「どうした?切った?」とこちらへと戻ってきた。




「大丈夫。バックのポケットから絆創膏取って貰っても良い?」



「待ってろ、消毒液も持ってくるから」




さすが警察官と言うべきか、すぐさま救急箱の中から消毒液を持ってきたみっちーが私の切り傷へとそれを垂らしてくれた。




「絆創膏ってこれか?」




私のバックから取り出した絆創膏を掲げたみっちーに「それは違う」と頭を横に振る。消毒液が付着していた指先にティッシュを押し付けて、別の絆創膏を取り出した。




「貼ってください」



「今回は嘘じゃなく、ちゃんと怪我してますね」




いつかのやり取りを思い出したのか、みっちーは丁寧に絆創膏の紙を剥がして私の指先へと貼ってくれた。




触れた指先の熱はその一瞬で離れていく。




「ていうかさっきの絆創膏は何が駄目なんですか。……形も大して変わらねえよな?」




敬語はやめてと言ったのに、気づいた時には戻ってる。でもそれに自分自身でも気が付くのか、「おっと、そう言えばそうだった」と言わんばかりにまた砕けた口調に戻る姿が愛おしかった。




私の下らないお願い事を期間限定でも叶えてくれようとしてる。




首を傾げながらも手元に残った紙を丸めていく。




絆創膏に覆われた傷口は不思議ともうあんまり痛くは無かった。




ゴミ箱に紙を放り込んだ瞬間を見届けてから「あれは」と口にする。




「みっちーがくれたものだから、大事に取っておいて家宝にするの」




だから駄目と言うと、みっちーは静かに口を閉じて考え込んでから「聞かなきゃ良かったわ」と言ってまた部屋へと戻って行った。






押し倒しますと言われた言葉を真に受けていたわけでは無いけれど、そういう展開になってくれれば良いなとほんの少し期待しても居た。




けれど実際微塵も手を出されずに、作ったミネストローネだけを食べると「もう遅いから帰りな」と直球に帰る事を命じられた。




「え、ミネストローネ作りに来ただけで終わっちゃうよ」



「どこから突っ込んだら良いんだろうな?今日会う約束してねえのに一方的に行くからって電話切られた事について?良いなんて言ってねえのに勝手に駅まで来た事について?部屋まで上げてあげた俺の寛大さについても話したい所だけど、ちょっと上がったら帰るって話だったよな?」


「全て私が悪いですね。じゃあ次からはちゃんと約束してくる。明日は来て良い?」



「鋼の心なのかな」




驚きを通り越して尊敬するわと言われて、それほどでもと照れた。




煌々と灯るテレビの光を浴びながらも、壁掛けの時計を見るともうすぐ日を跨ぎそうな場所に針が行きつきかかってる。




開店が10時からで9時頃にお店に辿り着けばいい私と違って、みっちーはそうもいかないだろう。




出来る事ならここに泊まって行きたい所だけれど、今日は着替えも何も持ってきていない。次来る時は持って来ようと密かに決めながらも、腰を上げた。




「今日は寂しいけど帰る」



「偉い偉い」




こんな時ばかり頭を撫でてくる。もっと違う事で頭を撫でて欲しいのに。




「ちょっと待ってな。駅前のタクシーはこの時間帯だとたまに捕まらない時あるから」




止める間も無く、タクシー会社へと電話をかけるとマンションの前に一台頼んでしまう。帰るとは言ったけどこの早さ。もう少し名残惜しそうにしてくれてもいいのに。




「10分くらいで来れるって」



「あっそうですか」



「何拗ねてんですか」



「拗ねてるんじゃなくて怒ってる。寂しいと思ってるのは私だけですか」



「寂しいに決まってるだろ。みちかが居なくなると急に部屋が広く感じるからな」



「来たの今日が初めてなんだけど」




腹が立って、隣から腰を上げたみっちーのパーカーの裾を引っ張った。




「またねのキスしてください」




幼い頃の私は、好きという気持ちを勢いのまま口に出来た。それは少しずつ成長する程に気恥ずかしさが勝って言えなくなった。




あの頃の可愛い私は居なくなってしまったけれど、大人になった今の私はみっちーに対してなら簡単にキスしてなんて言葉が言えてしまうらしい。




勿論恥ずかしい気持ちはちゃんとある。でも形振り構っていられないという焦燥感の方が勝る。




だって私にはあんまり時間が無いのだから。




「ええ?」と口を曲げたみっちーは、はいはいまたねーと私の額にキスをする。この子供扱い、言っておくけど同い年だから。




爪先立ちになってみっちーの唇を下から無理矢理奪い取った。




触れ合った瞬間の柔らかさと熱に固く閉じていた瞳を開く。




目も瞑らずに私を見下ろしていたみっちーは、「ふー」と小さく息を吐くと、それから腰を屈めて少しだけ乱暴なキスを返してきた。




驚いて上げていた踵が床へと落ちる。上から覆いかぶさってきたキスは、唇の隙間を全て埋めてしまう。髪の毛の中に潜り込んできた大きな手の平が、頬から後頭部にかけて覆いつくす。




驚きで固まる耳朶に微かなリップ音が重なった。




今起きている行為が現実なのだと知らしめている。




「―――――ん……っ」




最後に唇を軽く噛まれて押し付けられていた唇が離れた。




肩で息をする私を、みっちーは真っ直ぐな瞳で見つめてくる。私みたいに顔は真っ赤になっていないし、息も乱れていない。




手の平が後頭部から頬の中心へと添えられて、その温かさに目眩がした。




「動揺した顔」




低い声が落ちてきて、瞬きを繰り返す。




「男の部屋に来る意味、ちゃんと想像してねえじゃん」




責めるとも呆れるとも取れる言葉の後、みっちーの携帯が音をたてた。びっくりして肩を上げると、「タクシー来たって」といつもの口調で返された。




「下まで送ろうか」




玄関先までついて来るみっちーに「いりません」と矢継ぎ早に告げる。




私から断られる事は承知していたのか「そうですか」とすぐにその場に留まった。「危ないから下まで行きますよ」とは言ってくれない。




危ないのはマンションの中じゃなく、自分の部屋の方だと遠回しに伝えてくる。次来たらもっと凄い事するぞという脅し。だからもう来るなという拒絶。




パンプスに押し込んだ足が微かに震えた。怖かったからじゃない、物凄く緊張して堪らない気持ちになったから。




そんな脅しに簡単に屈する女だと思わないで。押し倒してよって言ったじゃん。想像してますって言ったでしょ。少々想像を上回った口付けだったけれど、怖いなんて微塵も思って無いんだから。




玄関のドアノブを掴んでから、肩越しに振り返った。私を見下ろすみっちーに向かってハッキリと「また来るから」と告げてやった。




「来たら次は押し倒す」



「押し倒してよ」




電話でのやり取りを繰り返しながらも、ふとみっちーに会おうと思った経緯を今更ながら思い出した。




「そう言えば、結婚式で剛ちゃんに会ったんだけど」




呆れた顔をしていたみっちーの空気が、剛ちゃんの名前を聞いた瞬間ピリっと緊張感に包まれた気がした。




私を見ている瞳も、表情も、何ら変わりは無いけれど室内に充満する空気が明らかに変化してる。




やっぱり二人は喧嘩別れをしてしまったんだろうか。




「二人は喧嘩、してるの?みっちーに何か伝えて欲しそうだったんだけど、途中で言うのやめちゃって」



「剛が?」



「うん」



「いやー?俺の記憶が正しければ喧嘩はしてねえと思うんだけど。もしかして知らず知らずのうちに怒らせる事してたのか?」




みっちーに限ってそれは無いと思うけど。




「今はもう連絡取ってないってほんと?」



「まあクラス違ったり、高校違ったりしたからな。何かあったわけじゃねえけど、そういうので疎遠にはなってたかな」




剛ちゃんと同じような事を言う。




何とも言えない表情だった剛ちゃんと反して、みっちーは心当たりが無い様子に見えた。




「まあ、近々連絡取ってみますよ。おっと、そう言えばタクシー待たせてるんでしたね!ほら早く行って!出てこないからって勝手に帰られたら困るだろ」



「それはそれで、わざわざ来てくれたタクシー会社さんには悪いけど、みっちーの部屋にお泊りすれば良いだけだし」



「それが一番困るんだわ!さっさと行きな。それからこれも」




急ぎ足で部屋の中へと戻ったみっちーは一万円札を持って戻ってきた。半ば強引に押し付けられてマンションの廊下へと押し出される。声を発するより早く乱暴に背後で扉を閉められた。




―――――――え、何。




「このお金何!」




扉を叩いて中へと声をかけると「タクシー代です」と素っ気なく返された。一度閉められた扉が開く事は無い。




ドアノブを掴んで引っ張っても、鍵がかけられていて全く開かない。




「いりません!自分で来たんだから」



「駄目です」



「いや、さすがに申し訳ないから!」



「申し訳ないと思うなら勝手に来ないでください。次来たら次も渡すから」



「お金使うのは卑怯です」



「それ、そっくりそのまま返すわ」




せめて顔を見て話してくれれば良いのに、扉越しの会話はすぐに途絶えるともうその場にみっちーの気配は感じなかった。




早々に奥の部屋へと引っ込んでしまったのかもしれない。ドアの隙間に挟めないだろうかと思ったけれど無理だった。下手に挟むと風で飛ばされた一万円札は誰かの手元へと渡ってしまいそう。




無言でその場からドアスコープへと圧をかけてみたけれど、何の反応も返ってこなかった。




仕方なくエレベーターへと向かいながらも、この一万円札は取っておこうと財布に入れた。次の機会に無理矢理返さないと。




それからもしもまた剛ちゃんに会う機会があれば、何を言いかけていたのか問い詰めないと。剛ちゃんの事は未だに少し苦手だと思うけれど、あの頃楽しそうにしていた二人の仲がまた元に戻れば良いと思ってる。




目の前で開いた箱に乗る瞬間、「また来るから!」と少し大きな声で閉まりきっている扉に向かって声をかけた。




反響した私の声が、外と面したマンションの廊下から暗い路地へと広がっていく。




みっちーはやっぱり、うんともすんとも返事を返してくれなかった。


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