二言は無しで

16

フローリングの床に額を押し付けるとひんやりと冷たかった。




フローリングに額を押し付けたのは人生初めてかもしれない。こんな感触でこんな冷たさなのか。




全くどうでも良いことを考える意識とは裏腹に「誠に申し訳ございません」と会社で大きなミスをしでかした社会人のような謝罪の言葉を口にする。




早朝からーーーーしかもみっちーは仕事明けでほぼほぼ寝ていないであろう中、再会ついでに嘔吐するって、穴があったら入りたいし、もう二度と出てきたくない。




吐いたらスッキリしたものの、お互い酷い格好のまま「じゃあ」なんて別れられるわけはなく、みっちーのマンションよりもやや一駅近い私のマンションへと避難した。




脱衣場からゴウンゴウンと音をたてて、吐瀉物が付いた服を洗い流している音が本当にいたたまれない。




扉の向こう側で「いやいや気にすんなって」と軽い返答が返ってくる。




気にしないなんてそんなの無理。口にしていたのがお酒のみだったのがほんの少し幸いなくらいで、どこをとっても最悪でしかない。




「それより」




目の前の扉が開いて、顔を上げると「うわ!」「ひいっ!」と互いに大きな悲鳴を上げた。ちなみにひいっ!と悲鳴を上げたのはみっちーの方だ。




「何て恰好してるの!」



「それ俺が言いたかったんだけど!?何してんの!」



「見たら分かるでしょ、土下座です!」



「何でだよ!」



「申し訳なくて頭が上げられないから!ていうかみっちーは何でそんな恰好で出て来るの!」




申し訳なさでいっぱいになり、みっちーを先にお風呂場へと押し込んだ。被害が一番酷かったのはみっちーの方だったからだ。




出て来たと思えば、バスタオルを腰に巻き付けただけの格好で出て来るものだから、上げかけた顔をまた床に押し付ける。




「ふ、ふふ、服を着てよ!」



「だって洗っててねえんだもん。だからどうしたら良いって聞こうと思ったんだわ」



「……あ」




言われてみれば、みっちーが着れるような服は一着も無い。緩めのパーカーはあれど、さすがに入りはしないだろう。盲点だった。




「ごめん、今すぐ買ってくるから」



「そこまでしなくて良いよ。どうせ今乾燥に入ったし」




回転しながらも汚れを落としていた洗濯は、そのまま乾燥機能へと切り替わったらしい。だとしても数時間はかかりそう。




「やっぱり買ってくるよ。風邪ひいちゃったら困るし」




目のやり場にも困るし。




「わざわざ良いって。それよりみちかも風呂入りな」



「え」



「ちょっとかかっただろ」




多くは言わないものの、ゲロと言いたげな表情を察して慌てて立ち上がった。




さすがに臭いままなのは嫌すぎる。




「入るっ、から寝てて!」



「え、何で」



「だって仕事一日だったんでしょう?乾燥終わったら起こすから」



「これくらい平気だから」



「良いから寝てて!そっちの部屋が寝室だから!」




寝室がある部屋へとみっちーの身体を押しやってから、上半身裸だった事に気が付いた。触れた肌の感触に飛び上がりそうになる。まだしっとりと濡れた筋肉質な肌は初めての感触だった。




恥ずかしさで体温が3度ほど上がった気がする。




確認もしないまま急いで脱衣場へと飛び込むと、閉めた扉の向こうから微かに溜息だけが返ってきた。




「寝ててって言ったのに……」



「無理だろ普通に」




シャワーのみですぐに上がると、みっちーは寝室には居らずリビングで落ち着かなそうにテレビを見ていた。




当たり前だけれど未だに腰にバスタオルを巻いた心許ない恰好で佇んでる。それを見る度また、フローリングに額を押し付けたくなった。




「女の子の部屋に上がって、勝手にベッド使ってる男の神経ってどんなだよ。絶対無理だわ」



「私が使ってって言ったのに?」



「それでもだろ」




とは言うけれど、どう見ても眠たそう。




欠伸を噛み殺しながらも「乾燥あとどれくらいだった?」と聞いてくる。




脱衣場を出る前に確認したところ、まだ1時間はかかりそうだった。けれど1時間くらいと告げたら、じゃあ待つわとそのままの格好で待っていそう。




「さ……3、4時間くらい」



「は?みちかの家の洗濯機どうなってんの?古すぎない?あの量で三時間??溜めて洗濯したら乾燥に一日かかりませんか!?」



「3時間以上もそのままだとさすがに風邪をひくと思う」



「暑いくらいなので風邪はひかねえと思いますが」



「眠そうだし、辛いと思う」



「これくらいいつもの事なので大丈夫です。何言おうとしてる?」



「私も一睡もしてなくて眠いです」



「何で一睡もしてねえの?どういう状況?夜勤とか?俺に合わせなくて良いから寝――――」



「一緒に寝て」



「………俺に合わせなくて良いから」



「一緒に寝て」




同じやり取りをもう一度繰り返す私達はあまりにも間抜け過ぎた。




みっちーは開いていた口を閉じてテレビの音量を少し上げていく。画面から流れる話は右から左へと流れているのが分かる。




何て言ったんだろう、聞こえなかったなーと言いたげな横顔を見て私の方から距離を詰めた。指先で触れると、肌はひんやりと冷たくなっていた。暑いなんて嘘ばっかり。




片腕を取って無理矢理引っ張っていく。「待て待て待て」と言いながらもさほど強い抵抗はされなかった。




寝室の扉を開くと「ひゃあ!!」と情けない声を上げている。至って普通の寝室でしかないのに。




みっちーの本心は分からないけれど、私はかなり緊張していた。けれど欲求というものの強さを今実感してる。これだけ緊張しているのに眠い。とても眠い。




ベッドに先に倒れ込むと一瞬で睡魔に襲われそうになる。




布団の反対側を捲って「早く寝て」と言うとみっちーは「いやいやいや!」と両手を大袈裟なくらい振って拒否してくる。




「みっちーが寝ないなら私も寝ないから」



「ほとんど目閉じながら何言ってんの!?ものの数秒で落ちそうだぞ。ほらほら、みっちーが子守歌うたってやるから」




おやすみーみちかー今日もとっても可愛いねー眠い眠いみちかー早くお眠りーと、何の曲にも属さないメロディーを口ずさみながらも肩をぽんぽんと叩かれる。




あやすそのリズムに抗いながら、「もう早くしてよ!」とみっちーを布団の中へと引きずり込んだ。




「おやすみーみっちー今日もとっても格好いいねー眠い眠いみっちー早くお眠りー」




もう逃がさないからと腕に両手と両足を絡みつかせる。コアラが木にしがみ付いている恰好そのものだ。




額をぐりぐりとみっちーの頬に押し付ける。




「怖い怖い!毎度の事ながら俺の話聞いて!?腕離して!?密着してこないで!?」




例えこのまま眠ったとしてもこの腕は絶対に離さない。全身に力を込めてみっちーを捕獲しながらも、「おやすみーみっちー」と作詞作曲みちかの歌を繰り返す。




途中で声を出すのも億劫な程の睡魔に襲われて、最後は言葉にならなかった。




隣から伝わる熱が私と同じ体温に変わっていく。みっちーの髪から私と同じシャンプーの香りがする事がとても嬉しかった。







「良く眠れた?」




気づいたらぐっすり眠っていて、完徹した疲れも吹き飛んでいた。




隣を見るとげっそりしているみっちーが居て、その腕はいつの間にか私の頭の下へと入っている。




いつの間に腕枕の体勢になったのか。もしかしたら自分で無理矢理下敷きにしたのかもしれない。私ならやりかねない。




「そんな風に見える?」



「見えない。何で寝てないの?」




まさかあれから一睡もしてないって事?




みっちーはゆっくりと私の頭の下から腕を抜くと、静かにそのまま両手を顔へと押し付けた。嘆いているみたいな恰好だなと思っていると。




「この状況で寝られるわけなくね!??」




この状況で爆睡してしまった私にそれを言う?




「しかも乾燥3、4時間じゃねえじゃん!1時間くらいでピーピー鳴ってましたけど!??」



「ウソ、サンジカンニミエタノニ」



「嘘下手なのかな?大体突っ込んで聞けなかったけど、寝てないってどういう事?美容室勤めだよな。親しくなったお客だと時間問わず予約受けるとか?」



「……そんな感じかな」



「その顔は絶対嘘だわ。でも怖くてこれ以上聞きたくねえ。聞いちゃ駄目だって警告音が俺の中で鳴り響いてる」



「そうだね。世の中には知らなくて良い事も沢山あると思う」




それに、聞かれたところで私も言う気はさらさらないし。心優しきみっちーと言えど待ち伏せしていたことを知ったらさすがに怒るかもしれない。




この事実は墓場まで持っていきます。




仮に気づかれていたとしても自分の口からは言いません。




みっちーは盛大な溜め息を吐くと「ちゃんと帰りなさいよ」と言った。




やっぱり大方の事はバレていそう。



「期間限定のお付き合いを延長してくれるならこんなに焦らなくて良いんだけど」



「延長は延長料金が発生するので」




それってもう、その期限が終わったら別れますと言っているようなもの。




分かっていたけどそんなハッキリと言われると、心が痛んだ。




「いくらですか?買います」



「1日1万円かな」



「分かった。じゃあ延長で」



「貯金下ろしてきそうな勢いだな。嘘だからな!真に受けないで?」




みっちーは物ではないのでお金で解決するのは少し気が引ける。




けれどそれもこれも全て、みっちーとの時間を増やすためと思えば致し方ないと思えたタイミングで、今の嘘だから!冗談だから!と矢継ぎ早に言われた。




酷い、真に受けて貯金を明日にでも下ろしてこないとと思っていたのに。




「アホか!すぐ詐欺されそうでこえーわ!そんな馬鹿げた事言うやつにはまるなよ。金が発生する付き合いとか絶対詐欺だから!」



「みっちー以外にはびた一文払わないよ」



「それもどうかと思うわ」



「だって私達、何も進んでないんだよ?」




この期間中に私を好きだと言って欲しい。みっちーの本心を教えて欲しい。何があってそんな風になったのか知りたい。




それら全て1つもまだ叶っていない。




「お付き合いしてるはずなのに、そういう感じがしません」



「そうですか……期待に添えていなくて申し訳ありません。ですが俺は今までお付き合いした事がないもので、付き合ったらどういう事をするのかが分からないのです」



「え、ほんと?」



「本当です」




真顔で見つめ返してくる瞳に嘘は無さそうだった。




みっちーって今まで誰とも付き合ったことが無いの?私以外、誰一人として?




意外すぎる発言で、唖然としたまま固まっていると「何ですか」と不服そうに唇を尖らせた。




「みっちーの全敗振られ記録聞きたいって?」



「あんなにモテモテだったのに」




聞こえないように呟きながらも、密かに嬉しくて思っていたり。だって色んな女の子と付き合ってきたと言われて嬉しいわけがない。




―――――私が初めてなんだ。




「何にも知らないみっちーのために教えてあげる」



「何急に。何言い出すのかと思うと恐怖でしかねえよ」



「お付き合いとはキスしたり、抱き合ったり、とにかく沢山くっつく事を言うんです!そういうの全然してないよね」



「キスはしたでしょう」




前回、と言われてなかなか濃厚な口付けだった事を思い出した。




動揺しかけた気持ちを慌てて立て直す。




「一回しかしてない」



「そんなに何回も何回もするものじゃないですよ」



「するものなの!」



「分かった分かった。しますから。とりあえずまた今度な」



「え、どこ行くの」




立ち上がったみっちーは怪訝そうに顔を顰める。




帰りますよと言いたげな表情に絶句した。




まさかここで帰るつもり!?という我が儘と、寝ていないと言っていたし早く帰ってゆっくりさせてあげたいという常識的気持ちがせめぎ合う。




良い女なら、気をつけて帰ってね。ゆっくり休んで。今日は本当にごめんね。と言うんだろう。




引き際はしっかりしなければいけないのは分かってる。恋愛に押し引きは大事だと恋愛漫画には書いてあった。




けれど私はそんな心優しき良い女には到底なれそうにないし、引けば引いただけみっちーはここぞとばかりに離れていってしまいそうで怖い。




「気をつけて帰ってーーーほしくない」



「自分の感情と戦ってるのがすげえ伝わる一言だわ」




そうでしょうね。




私は大きく頷いた。




「正直な気持ちを言えばこのまま泊まって行って欲しい。でも疲れてるのも分かるのでゆっくり休んで欲しい気持ちも勿論あります。でも離れたくない。ここで離れたら、また連絡しても有耶無耶にされて気づいたら期間が終わってそうで嫌です」



「たまたま都合が合わなかった日も勿論ありますけど、正直に言えば避けてたところがあるのは認めます。だって全然怯んでねえし、むしろ闘士燃やしてる感じがしてこっちがびびるわ。でも無茶して俺の事待たせたのはそうやって逃げてたのが悪いのは分かるので、休みならちゃんと電話にも出るし、会いたいって言ってくれんなら予定合わせてまたデートさせてください。逃げねえから身体酷使して俺を待つのはやめて?そして今日は帰って寝ます。結構限界なので」




お互いの本心を口にして、そこまで言われたのなら私が折れようと決めた。




「男に二言は無いですね」



「無いですよ」



「分かった。じゃあキスだけして」




またねって、あの時みたいにしてください。




みっちーは暫くその場で立ち尽くしていたけれど「格好がつかないから服着替えてからじゃ駄目ですか」と言った。




確かにバスタオルを腰に巻いただけの格好のままだった。私は全く気にしないのに。




乾燥が終わった衣服を引っ張り出してから、そう言えばとリビングへと戻り、財布の中から以前無理矢理押し付けられたタクシー代と、棚の上に上げていた物を取りに行った。




みっちーの服を洗濯に入れる前にポケットを叩いたら違和感があった。




大事な物だったらと引っ張り出すと、以前見た革表紙の物が出てきた。




前にも見た事があるそれにギクリとした。子供の写真ですかと聞いた時、違うと否定していたけれど。




勝手に見てしまいそうな気持ちを何とか押し殺すのが大変だった。さすがに人として駄目な事はしたくない。




「これ、洗濯する時にポケットから勝手に出しちゃった」




革の側面に指をかける。胸ポケットにすっぽりと入るくらいの小ささだ。




着替えを終えたみっちーは、差し出したそれを見ると「ああ」と丁寧に受け取ってパーカーのポケットへと押し込んだ。




「写真じゃないって言ってたけど、警察手帳か何か?」



「違う違う。そんなの持ち歩きませんよ。落として悪用されたら怖いからな。でも大事な物だったから良かったわ」



「洗濯しなくて良かったよ」



「俺も言い忘れてたから。まあ最悪、洗っちゃったらそれはそれだわ」



「だって大事な物なんでしょう?作れる物なの?」




データとかが残っていて、もう一度印刷できる物なのだろうか。




ーーーいや、と口ごもった後、無くしたらそれまでだなと寂しげに言った。




それって、と思っているとふいにみっちーが私へと一歩近づいた。顔を上げた瞬間に口付けられる。




頭上から覆い被さったキスは前回よりもずっと優しかった。恋人同士がするキスそのものみたい。




押し付けられた手の平が優しく頬を包み込む。啄むキスは深くはならずにゆっくりと離れていくと、最後に優しく抱き締められた。




みっちーの腕の中は広くてあまりにも暖かい。幸せってきっとこういう事を言うんだろう。



私も両手を背中へと回すと、はいはいと言いたげに私の背中に触れていた手の平がぽんぽんとそこを撫でた。それから「じゃあ帰るわ」と離れていく。




「あ、待って」



「ん?」



「えっとこの……」




一万円と言いかけて、考え込む。以前も無理矢理押し付けられた。正直に言った所で、素直に受け取らない事を見越して「あ、宇宙人!」とみっちーの真後ろを指差した。何言ってんのと言いたげな真顔を向けられて、そうなりますよねと恥をかく羽目に。




考えを巡らせたけれど、何も浮かばずに、仕方なく「これ受け取って欲しいんだけど」と一万円札を差し出した。




「何それ?」



「前に渡してくれたタクシー代」



「いりませんよ」



「私が嫌なの」



「俺も嫌なんですけど」



「でも無理矢理押し入ったのは私だから、これは返します」



「良いから。それはもう俺のお金じゃないので」



「子供みたいな事言わないでよ。良いから受け取って」



「部屋入れたのは俺だし、夜道一人で帰らせるの嫌だったってだけなので、まじでいらないです」



「いやいや、駄目です」




押し問答を繰り返していると、「あんまり駄目駄目言うと口塞ぐよ」と言われて押し付けていた一万円札の力が緩んだ。その隙に、一歩後ろへと引いてしまう。




頑として受け取らない姿勢を示されて、再びお札の行き場を見失った。




「じゃあ今度これで奢ります。素直に奢られて」




これで良いのか分からないけれど、こうでもしないとさすがに納得がいきません。




みっちーは仕方無さそうに「分かったよ」と頷いてくれた。




「次、予定が合う時は逃げずにちゃんと会ってくださいよ」



「分かりました。だからもう待たないでください」




約束だからな、と去り際に頭を撫でられた。




くしゃくしゃに乱れた髪をそのままにみっちーに大きく手を振った。




これから自転車に乗って、一駅向こうの自分の自宅マンションまで帰るなんて考えられない。それもほぼほぼ寝ていない状態で。




私なら途中でうとうとした末転ぶかもしれない。




「気をつけて帰ってね」




不安になってエレベーターに乗り込む間際、声をかけるとみっちーは爽やかな笑顔で手を振った。




マンションの廊下から下を覗き込むと、駐輪場に停めていた自分の自転車へと股がるみっちーの背中が見えた。




飽きもせずに手摺に両手をかけながら、その背中が見えなくなるまで見送った。




私がこの場から見送ってるとは思わないからか、はたまた居るかもと分かっていて敢えて見ないのか、どちらにせよ一度くらい確認してくれても良いのにと思うくらい、みっちーはたったの一度もこちらに顔を上げてはくれなかった。



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