2章

動き出さない運命

「無い」




ポケットの中からバックの中まで、全てひっくり返す勢いで探しているにも関わらず、大事な物がどこにも見当たらなかった。




人が行きかう駅前のベンチでこんなに必死に探し物をしている私に、誰一人として「どうしましたか?」とも「大丈夫ですか?」とも話しかけてくれない。何て冷たい街なのと発狂したくなるほど焦っていた。




「どうしよう、どうしよう」




腕時計を確認すると、もうタイムリミットの時間が刻一刻と迫っていた。




初日から遅刻なんてありえない。




何で私っていつもこうなんだろう。




「思い出して私……記憶を呼び覚まして」




とにかくもう今は諦めるしかない。これはもう確実に無い。落とした。盗まれた。どれか分からないけれど、これだけ探して無いんだから今手元にない事だけは分かった。




だから諦めて次の事を考えるしかない。




両手で頭をぎゅっと抱えるようにして、何とかあの日の出来事を呼び覚ましてみる。




そうあの日、数週間前の出来事。あの日もこうしてこの駅から目的地へと向かって歩いたでしょ。ちゃんと説明されたでしょ。まず何を目印に歩けばいいって言われてた?




「確か……」




顔を上げると連なる高いビルがいくつも見えた。




電車がホームへと辿り着いたからか、大勢の人が階段をバタバタと忙しなく降りてくる。とてもじゃないけれど「すみません」と声をかけられそうな感じがしない。




――――――目が回りそう。




『あの黄色い看板を目印に真っ直ぐです』




天使のように可愛らしいあの子がこっちだよ、とあの日と同じく記憶の中で手招きしてる。




「こっちだ」




ベンチに取り出していた財布やら化粧道具を、全部バックの中へと戻して駆け出した。




駅前の時計の時刻がちらりと視界に入って、誰にともなく助けて助けてと叫びたくなる。




切れ切れの記憶を頼りに知っているような道をとりあえず突き進んでいく。電話ボックスの一つでもあれば電話が出来るのに、こういう時に限って見つからない。




今日は仕事初日の日で、絶対に遅刻が出来ない。




なのにこんなに大事な日に、私はどうやら携帯を無くしてしまったらしい。




だからあれ程メモ帳に書けって言ったでしょ。自分を酷く罵りたくなりながら、迷子の気持ちってそう言えばこんな感じだったなといつかの記憶がふいに過った。心細くて堪らない。頼れる人は今この瞬間一人も居ない。




携帯電話って、こんなに大事な物だったんだ。




初日から信用を失う、クビ………とまで最悪な想像をして絶望しているとふいに視界の隅に見えた交番の文字に目が留まった。交番……交番……警察。




「すみませんっ!」



「あ、はい。どうされました」




駅近にある交番だからか、中は意外と広く私のように困っている人が数人居た。




少し歳のいった男の人がはいはいと私の元へと近づいてくる。




「あのっ……落とし物……携帯の落とし物は届いてませんか」



「携帯の落とし物……届いてませんねー。どこで落としたか分かりますか?」




比較的のんびりとした話し方の警察官に、私は慌てながらも「分かりません!」と畳みかけるようにして口にした。




「そうですかー」とやっぱり間延びした返事が返ってくると「では紛失届をー」と次の段階へと進んでしまう。




私だって探せる物ならそうして欲しいけれど、無いと分かった今、次にする事はもう決まっていて。




「それは後で書きます!すみません時間が無くて、実は今、道に迷ってましてっ。emiって美容室知りませんか。あの個人宅の下で営業してらっしゃるお店でして、木造建ての可愛らしいお家なんですけど」



「……えーっと少々お待ちくださいね」




―――――あああああ、聞くの失敗したかも。




どれどれーと大きな地図を取り出すと「どの辺りでしょうかね」と地図上を指差しながらも問うてくる。




それ、私が一番お聞きしたい。




「も、もう大丈夫です。ありがとうございました」



「あ、大丈夫ですか?」




大丈夫じゃないですけど大丈夫です。




交番を飛び出して、確かきっとこっちの方だったという頼り無い記憶のまま走りだす。交番から少し遠ざかってから、絶望のまま腕時計を確認すると開店時間までもう20分しか無かった。




30分前には着けるようにと考えていたのに。




目の前の十字路の道が、まるで絶望への別れ道にすら思えてきた。




右か左か直進か、はたまた戻るか。私はこういう引きがすこぶる悪いから、どれを選んでも駄目な気がしてならない。




「お困りですか?」



「……え、あ」




キ、っと微かなブレーキ音。




絶望のまま顔を上げるとすぐ隣には自転車に乗っている警察官が居た。




爽やかな笑顔を向けられて、呆けたようにその人をまじまじと見つめてしまう。




暗い色の短い髪、目鼻立ちはスッキリしていてやけにさわやかに見える。




「あの……迷子……でして」



「迷子」




警察官はなるほどと頷くと、「目的地は?」と問うてくる。




「個人宅でやってらっしゃる美容室で、emiって名前のお店なんですけど……携帯を無くしちゃって、メモ機能に詳しい道の内容を取ってたから……道も分からなく……なって……しまいまして」




何この絶望感と自分の駄目さ。




うーん?と駅前の交番と同じく首を傾げられる事を見越していたけれど、意外にもその警察官は「emi、はい分かりますよ」と頷いた。




「え、分かるんですか」



「個人宅の美容室ですよね。木造建ての」



「そうっ!そうです……っ」



「ここからだとすぐですよ。時々うちの交番にもemiさんのお店の場所を訪ねて来る方いらっしゃるので。もしかして時間も無い感じですか?」



「今日が仕事初日の日なんですっ。あと15分しかなくて」



「それはやばいですね。えっとじゃあ、輝てる!」




警察官の男の人はこの場から誰かの名前を叫ぶと、道を挟んだ反対側にある交番から大柄な男の人がのっそりと姿を現した。身長がとても高くて体格も良い。




慌てていたからここにも交番があった事には今気が付いた。




「ちょっと道案内してくるから、後宜しく」



「分かりました」



「本当は一緒に歩いて道案内ってあんまり良くないんですけどねー。特別です」




朗らかに笑うと、内緒ねーと言うみたいに人差し指を自らの口元に添えた。横断歩道が青になったタイミングで「来て」と私を手招きする。




言われるまま走ってその方の後を追いかけると、そのまま脇道へと逸れるようにして自転車のまま走り抜けていく。




「すみませんねー。非番だったら後ろ乗っけてあげられるのに」



「い、いいえ。むしろ凄く感謝してます」




私はバックを抱え直して、走って彼の後ろをついていく。




もっと若い頃はいくら走ったって平気だったはずなのに。歳って凄く恐ろしい。こんなに足腰が衰えているなんて。




交番からほんの5分程走った場所に住宅地が現れて、その一角にあるとてもお洒落な家が見えてきた。家の前には車が2台程停められそうな駐車場と、emiというお店の看板が。




「ありっ……がとうございました」



「良かった。時間間に合います?」



「間に合いますっ」




もう何て感謝したら良いか。




ペコペコ頭を下げる私に警察官の方は「早く行きな」と手を振って、それから「あ」と思い出したように「携帯!」と声を上げた。




「どこで落としたか分かりますか?」



「わっ、分からなくて……でもたぶん電車の中かもしれないです」



「何行きの電車に乗ってきたんですか?」




どこの駅から何時に乗った電車で、どこ行きだったかまでを告げると「分かりましたー問い合わせてみますね」と笑顔のまま「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた。




神かもしれない、あの人。




この冷たい街にもあんなに優しい警察官が居るなんて、それも仕事場から近い交番に居る事がとても救いのように思えてならなかった。





「それは、とっても災難でしたね」




私の5個下である美容室emiの店長をしている夢ちゃんが、案ずるように眉尻を下げてそう言った。




夢ちゃんは他店の美容室で数年経験を積んだ後、結婚と同時に個人のお店を出したそうだ。




旦那さんは建築士で、この家もお店も全て旦那さんが設計したものらしく、お店の中は木造の温かみのある作りで、ここで働きたいと決めた理由の一つでもある。




初日から遅刻―――――にはギリギリならなかったものの、出来る事ならもっと早く着いて開店準備を手伝いたかった。




「ごめんなさい本当に……」



「いいえ。うちの店が分かりずらいから。初めてのお客さんにも場所が分からなくて、交番で聞いたって良く言われちゃうんです」




そのお世話になった交番は私と同じ場所かもしれない。




夢ちゃんはもう少し分かりやすく地図をお店のホームページに載せた方が良いかもしれない、とパソコン画面を見つめて言った。




私の場合、全ての現況は携帯を無くした事にあるので本当に全て自分が悪い。




「でもみちかさんの携帯、見つかると良いですよね」



「携帯落とすと怖いって言いますからね……」




悪用されたりーーーーーとか、良く聞く話だから。




友達の連絡先を抜かれたり、住所がバレたりーーーーーー急ぐ事に必死になっていてそこまで頭が回らなかったけれど、これってかなりやばい事かも。




「怖くなってきた……」




運良く優しい人が拾ってくれている事を願うしかない。




カウベルの音がしてお客さんが店の中へとやってきた。




「いらっしゃいませ」



「いらっしゃいませ」




夢ちゃんと共に笑顔で迎え入れながらも、内心一度気になった携帯の事で心は全く落ち着かなかった。





店じまいを終えて、ダメ元で交番へと足を運ぶと今朝と同じあの爽やかな警察官の方が「お」と顔を上げて私に気が付いてくれた。




「あの……携帯……どうでしたか」



「お姉さんの携帯ってー機種は」




警察官の人は私が持っている携帯の機種に色も付け加えて、的確にぴたりと当ててくる。




それってーーーーーーもしかして。




「良かったですね。ありましたよ」



「ええ、嘘!」



「ほんとー」



「ど、どこにありましたか?やっぱり電車の中?」



「それが電車の中には無かったみたいで、駅前の交番に連絡入れたら、今朝階段に携帯の落とし物があったって聞いて、それじゃないかなと思いまして」




ああああ、まさかの階段。すぐそこだった。何で一回戻らなかったのか。焦りすぎてもう色々駄目。




「何から何までありがとうございました」



「お役にたてたなら良かったです。出勤時間も間に合いました?」



「間に合いました。ほんと神様のようでした」



「ええー何が?俺がー?」



「はい。もうこっちの人本当に冷たくて、元々小さい頃はこっちに居たんですけど、両親が転勤族で点々と色々引っ越して……田舎が多かったからか都会の人怖いです」



「まあ、皆急いでる感じありますよねー」




田舎はもっと優しい人が多いのに。あの人困ってるかもと思ったら見ず知らずの人でも「大丈夫ですかー?」なんて声をかけてくれる事も多かったように思う。




警察官の人は「ちょっと身分証見せて貰ってもいいですかー?」と笑顔で言いながら、私の携帯を差し出してくれた。




ああ、はいはい身分証。財布から免許証を取り出すと、見たのか見てないのか分からない適当さで「はい大丈夫でーす」と笑顔で返された。




良く笑う明るい人だ。




この笑顔を見ていると、何だか不思議と懐かしくなる。そう言えば今朝会った時からそうだった。懐かしくてホっとするような不思議な気持ち。この人がきっと良い人だから。




「色々こういうの面倒なんですけど、手続きしてもらわないといけなくて」



「…………」




伏し目がちになった時の顔立ちが、困ったように首裏に当てた手の平が、私からの返答が無いのを訝しむように上がった顔が、まるで点と点が繋がるようにいつかの過去と繋がった。




―――――――あれ、うそ。




ピンと張った糸を手繰り寄せると、ずっと会いたかった彼へと行きついた。




「みっちー?」



「…………」




口をついて出た言葉と呆けたように私を見る顔に確信する。




――――――――みっちーだ。




「みっちーだよね。私の事分かる?あの……小学生の時ちょっとだけ一緒で」




心臓、苦しい。




「引っ越した後、手紙書いて渡してたんだけど覚えてない?」




ばいばいって手を振ったあの瞬間を思い出すと今でも鮮明にあの時の辛さを思い出せる。別れ方があんな風だったから。私が大人で一人でも暮らしていけたなら、あの時絶対に離れたりなんかしなかったのに。




会いたかった、ずっとずっと会いたかったその人が目の前に居る。




時間は呆気なくあの時に巻き戻っていく。心臓の鼓動も熱も、恋を知らせるみたいに忙しない。




帰り、夢ちゃんに可愛いセットをしてもらえば良かったと後悔するくらいには今日は色々駄目な気がする。




化粧も何だか上手くいかなかったし、髪も長い髪を適当に結んだだけで、唯一出来ている事と言えば、ネイリストとして爪だけはちゃんとしている所くらい。




だとしてもこんな再会の仕方ってまるでーーーーーーーー。




「あーっと……ごめんなさい人違いかと」




紛れもなくみっちーそのものの人は、両腕を組むと困ったように微笑んだ。




「……人違い?そんなわけ無い」



「うーん。小学生。いやー本当に覚えて無い。お姉さんどこの小学校通ってました?」



「ど、どこの……えっと」




転勤族で小学生からずっと色んな場所へと飛んでいて、学校名なんてそんなに簡単には出てこない。でも、私の中でみっちーと一緒に通っていた小学校だけは特別で、確か……。




これだと思う小学校名を口にしても、目の前のみっちーは反応一つ示さないどころか「あーやっぱり違うわー」と笑顔のまま手を振った。




「俺が通ってた小学校そこじゃないです。やっぱり何かの勘違いですね。あるあるそういう事」



「……嘘だ!」



「お姉さーん、僕これから夜の見回りに行かないといけないんですよー。この手続きだけちゃちゃっとやってもらっちゃってもいいですか?お姉さん引っ越してきたばっかりって言ってたから知らないかもしれないですけど、夜になると駅前辺り治安悪いんで、遅くなりすぎる前に電車乗っちゃった方が良いですよ」



「そんな畳みかけるように言わないで!私だよ、みちかだよ。迷子になるからって、みっちーが一緒に家まで連れて帰ってくれたあのみちか」



「えー何それ?めっちゃ青春じゃん。超良い話ですね」



「そういう反応が欲しいんじゃなくて!」



「まあまあ落ち着いて。あれか、俺がほら格好いいから運命感じちゃった的な?確かに今朝の俺格好良かったもんなー。さらっとお姉さん助けて、落とし物も見つけちゃって、神とか言われちゃうくらい格好良かったもんなー分かる分かる」




はい、分かるからこれ書いてねーとみっちーはペンと手続きに必要な紙を私へと押し付けてくる。




絶対絶対みっちーなのに!




「頭打った?」




私と別れたあの後に、大きな事故があったとか、とにかく頭に強い衝撃を受けた事があるの?




「……は?」



「頭打って記憶喪失とかなの」




みっちーは瞬きを繰り返すと、私の言葉を一言一言受け取るようにして「記憶喪失」と復唱すると、おかしそうにフっと口元を緩めた。




「俺産まれた時から一つも零さず記憶残ってるから」



「私の記憶残って無いじゃん!」



「いやいやですからね?お姉さんみたいな可愛い美人さん、一度会ったら忘れませんよー。みちかちゃんね?俺絶対高校の頃出会ってたら口説いてるわー」




鈍器か何かでゴンと強く頭でも叩かれたような衝撃だ。




あ、これ玉砕したって事?はたまたみっちーの記憶には残らない程度の存在だったのか。どちらにしたって玉砕したには変わりない。




言われるままに紙にペンを走らせながらも、泣きたくなった。




運命感じちゃって何が悪いの。こんなの絶対運命じゃん。




みっちーの名前が充で私の名前がみちかだったから、似ている名前で最初から凄く気になった。話してみたら優しくて、周りの男の子とは全然違う雰囲気に一気に好きになったのを覚えてる。




「結婚しようって約束したのに」




私が無理矢理手書きで書いた婚姻届け、あの頃は分からずけっこんとどけと紙の一番上には書いていたけど。




そこに「みっちーの名前も書いて」と言ったら、みっちーは困ったような顔をしながらも………。




顔を上げて今現在のみっちーを窺うと、頬杖をつきながら「そっかそっかー」と何だかやばい女を適当にあしらうみたいに頷いていた。




私は「んん?」と頭を捻ってみる。




そう言えば、話し方――――――警察官として接してくれた時のあれはみっちーだったのに、何この違和感。




あの頃のちょっとだけ不器用で、でも優しくて、格好良くて、皆が頼りにしているみっちーは今や影も形も無いような。




何そのちゃらちゃらした喋り方。




「やっぱり頭打ったでしょ」



「打ってないですって」




みっちーはちゃらちゃらな笑顔をそのままに「はい手続き終了」と私の書き終えた紙と交換に携帯をしっかりと返してくれた。




「このまま街中真っ直ぐ通って駅まで戻った方が良いですよ。近道だからって脇道に逸れたりしないように」



「み」



「気を付けて帰ってくださいねー」




私の言葉を塞ぐと、みっちーは「さーて俺は見回りだー」と気合いを入れるように背を向けた。




その背中を見つめながら髪の隙間に大きな傷跡でも無いだろうかと、この場で暫く放心してしまう。それこそ事故の傷跡みたいな。




そんな事をしても見えるわけは無く、違和感と腹立たしさと悲しさを引きずりながらも交番を出た。




みっちーなのに、みっちーだったのに。




みっちーなはずなのに。




満員電車でぎゅうぎゅうに押しつぶされそうになりながら、他人行儀な接し方をするみっちーにしてみっちーにあらずなあの警察官の事がずっと頭から離れなかった。


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