心の傷に絆創膏
8
みっちーにしてみっちーにあらずなあの警察官は、この近辺ではとても有名なようだった。
美容室の店長である夢ちゃんの話に寄ると、街の人気者らしくて、親切な対応と優しい笑顔で老若男女とにかくモテるらしい。
現に私も出勤時にみっちーが女子高生に絡まれているところを一度目撃した。
「みっちーおはよー!」
その呼び名にギクリとして、同時に心も抉られる。
ああ、その呼び名は私が付けたものなのに。大人げなく若い女の子達に嫉妬してしまう。あれはみっちーにしてみっちーにあらずと、何度その呪文を唱えたか。
そんなことをしたって、あれはどう見てもみっちーだ。
交番の前に群がる女子高生数人が、親しげに手を振る先で、当人であるみっちーは「おはよう。今日は早いな」と手招きされるままに女子高生達の元へ。
「今年の担任うるさいんだよねー。遅刻はそのまま欠席扱いとかやばくない?」
「さすがに留年したくないしさー」
「まじかー厳しいな。じゃあ遅刻しないように早く行きな」
「みっちーも早く仕事しな」
「一応今も仕事してるんですけどね。ていうかちょっと待った。手怪我してね?」
「あー、ほんとだ。せっかく早起きするしと思って、彼氏の弁当とかも作ってみたりしたんだよねー。たぶんその時切ったのかも。絆創膏貼ってよ」
女子高生が自らの指先を差し出す瞬間まで、道路を挟んだ反対側に佇んだまま息も出来ずに見つめてた。
「弁当作りとか偉いなーラブラブかよ」
みっちーは「うらやまー」と茶化しながらも、ポケットの中から絆創膏を取り出すと袋まで破ってしっかりと傷口にそれを貼ってあげていた。
「痛いの痛いの飛んでけしてやろうか」
「それはいらなーい!ありがとねー」
「気をつけて行けよ」
良いなあと羨ましく思いながら、この道路を挟んだ距離よりも、今の私にとってみっちーは遠い存在に思えてならない。
あの頃なら、「絆創膏貼って!」と指を突き出した私に、みっちーは仕方無さそうに絆創膏を貼ってくれたはず。
悲しさが増す一方で、立ち止まってしまった足を慌ててお店へと向かって動かした。
「みっちーって?あのみっちー?」
カウンターを挟んだ向かい側で、薄いグラスに入ったウーロン茶を口にした懐かしい友人に私は「うん」と小さく頷いた。
その場その場を点々としていた私だけれど、唯一みっちーと同じ小学校に通っていた時仲良くなった奈々子とだけは、引っ越した後もずっと連絡を取り続けてた。
奈々子は約束通り、私が引っ越す度に電車や新幹線を使って私に会いに来てくれた。自由に飛んできてくれる奈々子の事が羨ましくて、同時にとても大好きだった。あの頃何度奈々子に救われたか分からない。
転勤する度一から友達を作らなければならず、時には輪に入れないまま転勤した事も何度もある。その度奈々子は私を励ますように会いに来てくれた。
この街に帰ってくる事も事前に伝えていて、奈々子は落ち着いたら飲みにおいでよと誘ってくれた。
奈々子はバーの店長を若い頃からしていて、飲み屋街が連なるこの一角でも有名なお店のようだった。
常連客らしい顔ぶれが店内にはいくつかあって、お客さんは「奈々ちゃん」なんて親しんだ呼び方で奈々子を呼んでいた。
口に咥えていた煙草を引き抜くと「懐かしいねー」と奈々子は笑った。
「みっちーって言ったら思い出したんだけど、小学校の頃付き合ってた、まあくんとあーちゃんって覚えてる?あの二人結婚するみたい」
「覚えて無いよ」
「ええ?丁度みちがこっちに引っ越してくるって連絡くれた日に、あーちゃんから連絡もらったのよ。二人にみちの話したら結婚式来て欲しいって言ってたけど」
「どうせそれ、ご祝儀目当てでしょ」
「性格悪い事言わないの。幸せ僻み良くないよ」
「その通りですね」
私は今絶賛傷心中だって言うのに、と思ってしまったのは言うまでもない。
反省して「行けたら行きます」と頷いておく。
「奈々子ってみっちーとどこまで一緒だった?」
「中学までじゃない?でもみちが引っ越してから全然話してないから記憶にない」
「え、そうなの?あんなに仲良かったのに?」
灰皿にぎゅっと押し付けた煙草の先端から微かな煙が最後に舞う。
「仲良かったのはみちでしょ」
「みっちー、何か雰囲気とか性格が突然変わらなかった?馬鹿っぽくなったって言うか」
「そんなのもう覚えてないよ。いつの話だと思ってるの。顔すら出てこないくらいなのに」
「お願い!記憶を呼び覚まして!みっちーあれから事故とかにあってない?頭打ってない?それか廃墟とかに肝試しとか行ってない?」
「知らないよ。ていうか肝試し何か関係あるの?」
「憑りつかれてるのかと思って」
だってそれくらい、あの頃と全く違うから。
奈々子は「馬鹿なの?」と顔を顰めると「ていうか何でみっちーなの」と肩を竦めた。話せば長い事ながら、私はここに引っ越して来てからの出来事を奈々子に話した。
携帯を無くして仕事先の住所が分からなくなった事、そんな私を颯爽と助けてくれた警察官が居た事、仕事終わり訪ねてみるとまさかの携帯を見つけてくれていた事、その素敵な出来事を話せばそれはやっぱりみっちーのような気がするのに。
あの頃いつだって私の助けになってくれていたから。
「へえーみっちーが警察官ね」
「でも……口開いたと思ったら知らない男の人が出てきた」
「みっちーじゃないんじゃない?」
「絶対みっちーだよ。顔見たらすぐに分かった。成長しててもみっちーだった。格好いいよ」
「みっちーのこと大好きだったもんね」
―――――――だった、って。
「今も好きだよ」
「一途って素敵だね」
奈々子は羨むような眼差しで私を見ると、カクテルを一杯手際良く作って私に差し出してくれた。これを飲んで忘れなさいよという事だろう。忘れられるわけなんて無いのに。
「仮にその警察官がみちの知ってるみっちーだったとして、そういう態度取るって迷惑だって遠回しに伝えてるんじゃないの?」
「やっぱりそうなの?」
「実はもう結婚してるとか」
「嘘……約束したのに」
「みちが覚えてたって、本人は覚えて無いかもしれないでしょ。覚えてたとしてその気持ちは受け取れないって思ってるかもしれないし。それに小学生の頃の約束事でしょ?」
「……本気だったのに…。私ここに帰って来れるの楽しみにしてたの。もしかしたらどこかで会えるかもしれないって思ってて。そうだ思い出した……あの時みっちーは私が将来その約束を覚えてて、気持ちが変わって無かったら結婚しようって言ったんだ!」
「何それ」
無理矢理押し付けた婚姻届けならぬけっこんとどけ。あそこに名前を書いてと言った時、みっちーは確かそう言ったような気がする。
その時、その紙を私が持ってきてくれたら結婚しよう愛してるよみちかーーーーみたいな。
あの約束のけっこんとどけを探してみるしかないかもしれない。絶対きちんと保管してあるという自信はあるものの、いつからそれを見ていないのかが思い出せなくてほんの少し不安になる。
「ああ、もう……何で今持ってきてないの」
「良く分からないけど悲しい事だけは分かったから。運命だと思ってたのにね」
差し出されたティッシュの箱を両手で抱えながらも何度も頷く。
泣きたいくらい悲しいけれど、あのお馬鹿なちゃらちゃらしたみっちーが頭に浮かんでくると涙なんて引っ込んだ。あなた誰よ。
もしも何か悪いものが憑りついて、あんな風にしたのなら今すぐその身体から出て行って欲しい。
そしたらきっと本当のみっちーが「みちか、会いたかったよ。俺と結婚しよう」と言ってくれるはずだから。
私はカウンターに置いていた携帯の画面に指先を這わせながら、検索履歴に【お祓い】と打ち込んだ。
呆れたように煙草をもう一本口に咥えた奈々子は、「ねえ、今度ネイルしてよ」と言ってくる。
私は財布の中から美容室emiネイリスト柊みちかと書かれた名刺を奈々子へと差し出した。
「勤務時間にどうぞ」
交番の中は煌々と明かりが灯っていて、帰り道は反対側だったのに良くここまで真っ直ぐ来られたなと自分自身に感心する。お酒の力ってとても凄い。
「いや、こえーわ!」
気づかない振りをしながらもせっせと何かの書類にペンを走らせていたみっちーは、耐えきれなくなった様子で声を張り上げた。
その隣で数日前にも居た体格の良い警察官の方も、何とも言えない表情で視線を彷徨わせてる。
「一体何なんですか?また携帯失くしたんですか?」
みっちーは呆れたように椅子を引いて交番の外へと出てくると、私を上から下まで眺め「酒飲んでます?」と問いかけた。
私はその質問を無視して「失くし物と言えば失くし物かもしれません」と言う。
「みっちーという大切な人を失くしました」
「それは……何と言っていいのやら。お悔み申し上げ」
「死んでません。目の前に居るのにいつまで経っても認めてくれない。あなたは一体誰なんですか。みっちーの身体から出て行って」
「こえーわ。超こえーんだけど!何なの?見える系の人なのお姉さん。俺に何か憑いてるの?」
ひゃあ!なんて情けない悲鳴を上げて自らの両肩をそれぞれぱしぱしと叩いてる。そんな間抜けな人、みっちーなんかじゃないのに、でもどう見たってみっちーなのが凄く悲しい。何これ意味が分からない。
「お祓い行ってください」
「まじでこえーんだけど」
お祓い的な何かなのか、記憶的な何かなのか。
「嘘をつかないで欲しいんだけど、本当に私の事覚えて無いんだよね」
「前も言いましたけど、お姉さんみたいな美人な人、一度会ったら忘れませんよ」
「出会ったのは小学生の頃だから、ちょっと顔が変わってるかもしれないし」
ていうかその……老けたかもーーーーーしれないし。
あの若かりし頃特有のキラキラとした感じは微塵も無いし。
何だか恥ずかしくなって、今更髪の毛を手櫛でせっせと直してみる。片耳へとかけてみっちーをそっと見つめると、全く興味が無さそうな顔をしててさすがに張り倒したくなる。
「俺大抵可愛い子の顔は忘れないから、出会ってたら覚えてますって」
「本当にあなた誰なの」
みっちーはそんな事軽々しく口にしません。
「いやいやだからー。俺はここの交番に勤めてる警察官ですってー。フラフラして危ないなー。ていうか終電もう終わってない?」
「大人なのでタクシーで帰ります」
「大人はそうやって訳の分からない事を言いませんし、ストーカーめいた行為もしたりはしません」
「誰がストーカーなの」
「あなたですよお姉さん。まあ美人なので多めに見るけどね。ほら、ちゃんとしっかり歩いて帰ってくださいよ。ここの道真っ直ぐ行けば駅のロータリーに大体タクシー停まってますから」
お酒を飲んだ勢いのまま来たけれど、どうにもスッキリしないまま酔いだけが覚めてしまった。
言われてみれば良い大人が何してるのかと今更気恥ずかしくなってくるけれど、呆れたように私を見ているみっちーをジロリと睨んでも相変わらず素知らぬ顔。
「また来ます」
ペコリと頭を下げると、「いや用無いのに来ないでください」とみっちーはアホかと言いたげに突っ込んできた。
だってこんなの全然納得出来ない。
歩き出した私の背中に「やっぱりちょっと待って」と声がかかった。
振り返るとあの日と同じように交番の前に停めてある自転車を押して、私の元へと駆けてきた。
「危ないから駅まで送ります」
私の元へとやってきた姿が、大好きだったみっちーの姿と重なって、一瞬ぼんやりとしてしまう。
けれど目の前にいる現実のみっちーは「可愛いお姉さんと一緒に歩けるの嬉しいし」とか言ってる。
この人警察官なんだよね。捕まってしまえ。いや待って、もしもその身体の中に本当のみっちーが押し込められたままならそれは困る。やっぱり捕まらないで。
「奈々子って覚えてないですか?」
自転車を押すみっちーと二人、駅へと向かって歩きながらも問いかける。
もしも私の事を忘れていても、奈々子の事は覚えているかも。奈々子ってその、凄く美人だし。
「その子美人ですか?」
食い気味の返答に鋭い一瞥を向けてしまう。
「なるほど美人なのか。独身ですか?彼氏は居ませんか?お姉さん経由で紹介してください」
「最低!もう喋らないで欲しい」
「話しかけたのそっちでしょ。そう言えばここに引っ越して来たって言ってましたよね。そこのラーメン屋さん美味しいですよ。煮干し系食べれるなら是非。俺のおすすめはラーメンなんですけど、後輩はつけ麺が美味いって言ってました」
「ラーメンの話なんてどうでも良い」
「食べる事は大事な事でしょう。ていうかこんな遅くまで飲んでて明日仕事平気なんですか?」
「明日は火曜なので休みなんです」
「ああ、美容室が休みだから。お姉さんアシスタント?」
「私はネイリストで」
「ネイリスト。へえー凄いですね。だから爪がいつも綺麗なのか」
なるほどなあーと頷くその言葉に耳まで熱くなってしまう。
これはみっちーにしてみっちーにあらず。呪文のように何度も頭で復唱しながらも、高まる熱を何とか沈める。違うのみっちー、これは浮気じゃないから。
隣を歩く警察官が喋れば喋る程、誰なのこの人と思うのに、ちらりと窺った時の横顔や仕草、笑顔まで目を奪われる程あの頃のみっちーが成長したら、きっとこんな風だと強く思ってしまう。
届く距離に居るのに、どうしても届かない。
ふいに女子高生達の事を思い出してしまい、胸がきりりと痛んだ。
両手を組み合わせてから、ゆっくりと解いてみっちーに片手を付き出してみる。
何事かと凝視されて凄く恥ずかしい。
「指を怪我しました。絆創膏貼ってください」
「お姉さんどこも怪我してませんけど」
心の傷は重傷レベルで怪我してます。
見つめ合うこと数秒、それでも引かない私を見て、ポケットから絆創膏を取り出すとそれと一緒に何かが足元へと落下した。
視線を落とすと二つ折りのカードケースのような物が落ちていた。表紙はしっかりとした革で出来ていて、カードもそうだけれど、小さな写真でも入りそうなサイズだ。
しゃがみ込んで拾い上げると、それと交換で「はい」と絆創膏を手渡された。
私は貼ってって言ったのに。
女子高生には甲斐甲斐しく貼ってあげてたくせに。どうして私は駄目なの。ほんの少しでも触れられたらと思う気持ちすらいけないの。
みっちーは素知らぬ顔のまま、胸ポケットの中へと落ちた革張りの物を滑り込ませた。
ふと頭に過った嫌な現実にヒヤリとする。小さな写真でも入りそうな物ーーーーーまさか………自分の子供の写真……とか。
「もう嫌……」
「今度は何ですか!」
蹲って頭を抱えた私を気味悪そうに見ているみっちーに嫌々と頭を振る。
次から次へと悲しい現実を突きつけてこないでよ。
「さっきのは何ですか!まさか子供の写真とかですか!」
「違いますよ!」
「じゃあ中身は何なの!」
「何でお姉さんに言わなきゃいけねえの!?プライバシーって言葉知ってる!?」
「私とみっちーにプライバシーも何も無いもん!」
「いやいやあるわ!俺にもプライバシーくらいあるはず!」
「悪霊退散!!」
「いだあっ!」
腹が立ったのでみっちーの肩をパシンと強くバックでひっ叩いてやった。
みっちーの身体を使っていつまでも変な喋り方をしないでよ。
「何なのまじで!それ俺以外にやったら公務執行妨害だからな!」
「あなた以外になんてやらない!」
「それもどうかと思うわ!」
みっちーは「こえーよこの人」とぼやきながらも、押していた自転車に跨って踵を返すようにして私に背を向けた。
あ、と情けない声を上げると走り出した自転車がキっと音をたてて停車する。
振り返ったみっちーは怪訝そうに眉を潜めると。
「タクシーそこですよ」とそう言った。
言われてから、もう駅のロータリーに辿り着いていた事に気が付いた。ここに来るまであっという間だったな。
「タクシー沢山停まってますけど、おすすめは緑色の車体のタクシーですね」
「……何でですか」
「物腰が柔らかい人ばっかりですし、何より急ブレーキも急発進もしないから」
「タクシー運転手なのに運転が荒い人が居るんですか」
「中には居ますよ。じゃ、家まで気を付けて帰ってください」
みっちーは「じゃあ気をつけて」とひらりと片手を振ると、ペダルを漕いでまた元来た道を戻っていく。
その背中を見送る時、最後にまたねと言ったあの時の寂しさをどうしてか味わった。
何だか小石でも蹴りたいような複雑な気持ちのまま、車体が緑のタクシーへと近づくと後部座席がパっと魔法のように開いて中へと促された。
行先を告げる時も、それこそ走り出した時も「遅くまでお疲れ様です」と愛想良くされた事も含め、確かに緑色のタクシー運転手の方はとても良い人だった。
乗り物酔いする私が、お酒を引っかけていても全く酔う事が無いくらい丁寧な運転だった。
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