触れられたくない宝物
4
「本当に辞めるのか?」
職員室に並ぶ先生達の机は、私が使ってる机とはちょっと違って大人っぽかった。色が灰色なのがまた格好いい。
その一角にある担任の先生の元へと足を運んで、陸上部を辞めるという事を口にした。
私が言わなくても、きっと今朝のうちにでもお母さんが担任の先生に話をつけているのは知っていた。
朝学校に行く時に、お母さんからそう言われていたから。
「お母さんから先生に話しておくからね」と。
でも小さな反抗心で自分の口で言いに来た。私は自分の意思で辞めるんだから。お母さんに言われたから辞めるんじゃない。
「はい。引っ越しとかもあるから」
「そっか。まあ色々事情はあるよなあー。みちかは足が速いから大会で一位も取れそうだったんだけどな」
先生は凄く残念そうに肩を落とすと、「分かったよ」と頷いてくれた。
みっちーの前であんな恥ずかしい思いをするくらいなら、みっちーにあんな風に頭を下げさせるくらいなら、謝らせるくらいなら辞めた方が良い。
寝るまで沢山泣いて考えた結果だった。
凄く悲しい気持ちは変わらないけれど、みっちーがお母さんにごめんなさいと言った言葉がどうしても忘れられなかった。何にも悪くないみっちーを悪者にしてしまった罪悪感がずっと消えない。
だったら迷惑をかけないように今辞めてしまった方がずっと良いんだ。
「先生に話したの?」
職員室から出ると、廊下で待っていた奈々子が小首を傾げた。
「うん、ちゃんと話したよ。分かったって言ってた」
「ふーん。そっか」
今日になっていきなり「陸上部辞める」と言いだした私に、奈々子はちょっとだけ吃驚はしていたけれど何にも言わないで「先生に言いに行くならついて行くよ」と言ってくれた。
何があったの?どうしたの?と聞かない奈々子に凄く救われた。
あの悲しい話をもう一度口にするのは辛かったから。
「みちか、陸上部辞めるってまじ?」
教室へと戻ると、どこから話が伝わったのか剛ちゃんがすぐに私達の元へとやってきた。
興味本位で聞いてくるその目が本当に不快で仕方なかった。何で?意味分かんねえ。どういう事?その気持ちが顔にありありと出てる。
「うるさいよ剛」
奈々子が剛ちゃんを私の前から退かすように、肩を軽くひっ叩いてくれたけれど、それでも剛ちゃんは何で何でと煩く詰め寄ってくる。
「お前もしかして充と別れたから陸上部辞めるの?」
「……え」
投げつけられた問いにさすがに絶句した。
教室の中がざわっと騒がしくなる。無理も無い、剛ちゃんの声は大きいからきっと皆に聞こえたはずだ。
驚いて固まる私を見て、剛ちゃんは「だっていつも一緒に帰ってたじゃん」と茶化してくる。だから付き合ってるんだろと案に言いたい気持ちが伝わってきた。
普段だったら気恥ずかしく思ったりしたんだろうか。付き合ってるって、そんなそんなと照れたりしたのかもしれない。
でも今、私の心はズタズタで、そんな中突然私の大事な部分に土足で踏み込まれた事が本当に許せないと思った。
軽々しく別れたとか言うな。まるでみっちーのせいで陸上部を辞めたみたいに言うな。
みっちーは私なんかのために頭を下げてお願いしてくれた。全部自分のせいにして、お母さんの怒りの矛先を自分に向けてくれた。
何一つ悪くなんかない。
「家が近いから送ってくれてただけだよ」
それでも何とか怒りを堪えて顔を逸らして言うと、剛ちゃんは尚も「だってお前あいつの事好きじゃん」とさらに大きな声で言ってきた。
それを誰に知られても恥ずかしく無いと思っていたのに、剛ちゃんに大声で皆に聞こえるように言われた事は凄く腹立たしかった。
「うるさいな!」と自分でもびっくりするくらいの怒鳴り声が口から漏れた。
奈々子と剛ちゃんが私を見つめて固まっている事に気が付いたけれど、それでも開いてしまった口は止まりそうにない。
私のこの気持ちなんて剛ちゃんには分からない。面倒くさいやつだなって自分でも思う。
みっちーの事が大好きだ。大好きだけれど、そんな風に言われる事が今は恥ずかしい。みっちーが頭を下げてごめんなさいと謝った姿を思い出すと尚更に。
「私は剛ちゃんみたいな奴が嫌い!大嫌い!あっち行け!!!」
そんな大嫌いな剛ちゃんの口から、私とみっちーの事を分かったように言わないで。
両手で強く突き飛ばすと、身構えていなかった剛ちゃんがひっくり返った。放心したまま私を見ている顔と、静まり返った教室に今更何をやっているんだろうと徐々に冷静な気持ちが戻ってくる。
「……あ、ごめ」
「俺だってお前みたいな不細工で面倒くさい奴嫌いだよ!」
「剛!!」
勢いよく立ち上がった剛ちゃんが今度は私を突き飛ばしてきた。結構な勢いで押されたから、そのまま机事後ろへとひっくり返った。
凄い音がして、教室中がわっと一気に煩くなる。私の上に馬乗りになった剛ちゃんを、奈々子が素早く蹴っ飛ばして「怪我してない?」と助け起こしてくれる。剛ちゃんがまた背中から引っくり返った。
心の中がぐちゃぐちゃになって奈々子にしがみ付いて大泣きした。
そんな私を見て、剛ちゃんは罰が悪そうな顔をしながらも「お前うざい」と呟いて教室を出て行った。
廊下で「剛」とみっちーが剛ちゃんを追いかけて行く後ろ姿だけがちらりと見えた。
遠くから先生の「何してんだあ!」と慌てたように近づいてくる声が微かに聞こえる。
服を捲し上げていた指先が離れて、「はい、大丈夫よ」と保健室の先生が優しい顔で私の頭を撫でた。
駆けつけた担任の先生に連れられて、保健室で背中の手当てをしてもらったけれど大した怪我じゃない事は自分で一番良く分かってた。擦り傷程度の軽い怪我。だけど心の中は重傷だ。
「男の子と喧嘩したんだって?どうしたの」
保健室の先生は話聞くから言ってごらん、と促すように私の手にそっと温かい手を重ねた。
そんな風に優しくされるとまた泣いてしまいそうになる。
「クラスの……男の子が嫌な事言ったから。私の大事な宝物を傷つけられた気がして、でも最初に手を出したのは私です」
たぶんこんな言葉では伝わらないだろうけど。今言える精一杯はここまでだった。
保健室の先生はそれでも「なるほど」と頷くと、「それは悲しかったね」と私の気持ちを察してくれた様子でそう言った。
「手を出す事は良くない事だけど、みちかちゃんはきっとその宝物に触れて欲しくなかったんだよね」
「そう、そうなの。だって皆の前で大きい声で言うんだよ」
「それは嫌だよね。どうして言っちゃうのってなるじゃない」
「なった。だから突き飛ばしちゃったの」
今も許せないと思うけど、突き飛ばした事だけは悪かったなとは思ってる。
剛ちゃんも怪我をしたりしていないだろうか。謝った方が良いとは思うのに、どうして私がって気持ちも未だに拭えない。そっちから謝ってよとどうしても思っちゃう。
先生が「仲直りは出来そう?」と苦笑しながらも問うてきた。
無理にさせようとする感じでも無くて、素直に「今はやだ」と言うと「そうだね」とまた頷いてくれる。
その時、保健室の扉をノックする音が響いた。
もしかしたら奈々子かもと顔を上げると、扉を開けて中へと入って来たのはみっちーだった。
「みっちー……」
「怪我したって聞いたから」
みっちーはあの時教室には居なかった、騒ぎの後駆けつけた感じだったから追いかけた先で剛ちゃんに話を聞いたのかもしれない。
どうしよう、荒っぽい女は嫌いって言われたら。
みっちーの顔をまともに見られなくて俯くと、保健室の先生に「大怪我?」と心配そうに聞くその声が届いた。
「いいえ。大丈夫ですよ。充くん心配して来てくれたの?優しいね」
「剛からみちかの事突き飛ばしたって聞いたから。剛も悪かったと思ってるみたいだけど」
言葉を濁したみっちーに、きっと剛ちゃんも今私と同じ気持ちなんだろうと悟った。悪いとは思うけど、今は仲直りはしたくないって。
「剛が嫌な事言った?」
「………」
事の発端については聞いてはいないらしく、今更その事についてみっちーに言う気にはなれなかった。
押し黙った私を見て、みっちーは分かったと口を噤むと少しだけ迷うようにした後に「教室、先に戻るな」と踵を返した。
その背中に一言だけ、「陸上部辞めた」と告げた。
振り返ったみっちーは驚いた顔はしていなかった。だけれど少し、寂しそうでもあって、「うん」とだけ返事が返ってくる。
分かったよとも、辛いなとも言われない。でもその「うん」の一言が有難かった。
「みっちーは辞めないで」
そんな事するわけないだろと言われたら恥ずかしいと思うけど、それでもいつも私の前を帰ってくれたから。目印になって道を示してくれていたから。
気を使って、じゃあ俺もってほんの少しでも今思っているのなら絶対に辞めないで続けて欲しい。みっちーが格好良く走ってくれている事が、私にとってはとても嬉しい事だから。
みっちーはもう一度「分かった」と頷くと、保健室を静かに出て行った。
その日の帰り道、みっちーは私が奈々子と別れると、すぐに隣へとやってきて「あの赤い看板の建物を右に曲がる」と帰り道の目印を一つ一つ口にしながら教えてくれた。
赤い看板、歯医者の建物、分かりやすい目印はすぐにスっと頭の中へと入ってきた。
それから最後に「これ」と手書きで書かれた分かりやすい帰り道のメモも別れ際に手渡してくれた。
「それでも、もしも迷ったらここに行きな」
「これって何?」
「交番。道に迷ったらこの紙を持って行けば教えてくれる」
「そうなんだ」
交番までの分かりやすい地図も書いてあって、みっちーは「ここ」と交番の場所に筆箱から出した鉛筆で、太い丸を何度も付けた。私は「分かった」とその丸が濃く鮮明になっていくのをずっと見ていた。
部活がある日はこれから一人で帰らなくちゃいけない。
それでもこの地図さえあれば、全然怖くないと思った。
だってみっちーが示してくれた道だもん。
翌日はみっちーが部活がある日で、奈々子と別れた後は一人で初めて家までの道を歩いた。手にはみっちーから貰った地図を握り締めて。
――――――なのに。
「あれ?」
言われた通り、赤い看板を曲がったはずなのに次の歯医者の建物がいつまで経っても見えてこない。何度も通った帰り道ではあるからか、ここはたぶん違う道だなという事に気が付いた。
「おかしいなー」
赤い看板だと思ったあれは、もしかしたらピンクの看板だったりしたんだろうか。
間違ったとして、ここで焦ったらいけない事を知っている。焦るともっと分からなくなる。みっちーも落ち着いて帰れば大丈夫と言っていた。
「そうだ」
そう言えばみっちーが迷ったときのためにと、もう一つ地図を書いてくれていたんだった。
困った時のおまわりさんへと続く道が示してある紙を取り出すと、紙に書いてある目印の建物がすぐ目の前にある事に気が付いた。まるでみっちーは私が間違って別の道を曲がる事を分かっていたみたい。
その建物さえ見えれば、交番はすぐ隣にあるからこれは間違いようが無いと急いで目的の場所へと駆けだした。
白い建物の入り口には警察の人がよくパトカーの上に乗せてる赤いランプがあった。交番という文字を確認してから、開いていた扉の中へと顔を覗かせると青い制服を着た警察官の人が私の存在に気が付いて「お」という顔をした。
「どうしたの?」
「あのー迷子です」
優しそうな警察官のおじさんは「迷子かあ」と私を手招きすると、目の前の椅子を引いて座らせてくれた。
「お母さんとはぐれちゃった?」
「ううん、学校の帰りで自分の家が分からないの」
「もしかしてお引越ししてきたばっかりかな?」
―――――そういうわけでも無いんだけど。
説明に困って「そんな感じです」と頷いた。
それからみっちーが書いてくれた、私の家へと続く地図を警察官の人へと差し出した。
「ここが私の家なんですけど、曲がる道を間違っちゃったみたいで」
「どれどれ」
おじさんは私の差しだした紙を丁寧に引き寄せると、それから紙の一番下に書かれている「充」というみっちーの名前を読み上げた。何度か瞬きを繰り返した後、もう一度私を見て優しく微笑む。
「もしかしてみちかちゃん?」
「え、何で分かるの?」
あ、知らない人に名前を教えちゃいけないんだっけ。でも警察のおじさんだから良いのかな。だって私、名乗ってないのにみちかちゃん?って聞いてきたんだもん。
警察の人って、街を守ってるって聞いた事があるから住んでる人の顔や名前を知っているのかもしれない。それって凄い事だとびっくりしていたら、おじさんは「充のお友達だよね」と紙を丁寧に四つ折りにすると私にそっと返してきた。
「えっと、そうです」
「おじさんは充のお父さんです。ちゃんと挨拶出来なくてごめんなあ」
「……みっちーのパパですか!」
「そう、みっちーのパパです」
おじさんがペコリと頭を下げて微笑むと、その笑顔は確かにどことなくみっちーに似ているようにも見えた。
「充と仲良くしてくれてありがとう。みちかちゃんが迷子になったら家まで案内してあげてって充から言われてるんだよ」
「そうなの?」
「ちゃんとここまで来れて偉かったね」
それはみっちーがここまでの道をちゃんと教えてくれたから。
優しく褒められると気恥ずかしくて、迷子になっていた事なんてすっかり忘れて嬉しい気持ちになった。
みっちーパパはちょっと待ってね、と隣の警察官のおじさんに「途中まで案内してくるから」と告げると、すぐに立ち上がって「じゃあ行こうか」と私をそっと手招きした。
青い警察官の制服を着たおじさんは、街中を歩く人達とは違って何だかとっても格好良く見える。
「みっちーもいつか警察官になるの?」
「うーん、どうかなあ。充が将来なりたいものになってくれたら良いと俺は思うよ」
「でもみっちーが」
「うん?」
「あ、ううん」
でもみっちーが、いつかその制服を着ている姿はとっても格好いいと思う。優しいみっちーが色んな人を助ける姿は、素敵だなって思うし、すぐに想像が出来た。
でも同時に、その時私はもうみっちーの隣には居ない事を考えてしまった。そんな事無いと思いたいけれど、隣に居る自分の姿はどうしたって想像出来なかった。
「みちかちゃん、ここを真っ直ぐ行けばあとは家に着くはずだよ」
「本当だ、知ってる道」
みっちーパパが道の先を指差すと、住んでいるアパートをちゃんと見つけられた。
道には迷ったけれど、みっちーパパにも会えたし、みっちーの地図のおかげでちゃんとこうやって帰って来れた。
「また帰り道分からなくなったらいつでもおいで。気を付けて帰るんだよ」
「はい!みっちーパパありがとう!」
「どういたしまして」
手を振った私にみっちーパパも同じように大きく手を振り返してくれる。暫く歩いて振り返ると、丁度立ち止まっていたみっちーパパが歩き出す所だった。
明日みっちーに話さなくちゃ。地図を見ながらちゃんと交番に辿り着けた事、そこでみっちーパパに会った事、みっちーパパのおかげで家まで帰れた事。
あの時一瞬浮かんだ悲しい未来を無かった事にするように、楽しい事ばかり考えながらアパートの階段を駆け上がった。
「ただいまー」
いつものようにチャイムを鳴らすと、お母さんが「おかえり」と鍵を開けて出迎えてくれる。
お母さんの顔を見ると、今日の出来事をふと思い出した。それについて話すとまたきっと泣いてしまうのが分かって、何事も無かったようにして家へと入った。
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