第2話 年納めのかす汁定食②

なぜ、こんな深夜にがっつり定食を食べなければならないのか。若い頃ならいざ知らず、三十路を越えてた今、胃袋へのダメージが思いやらずにはいられない。

 けれど鬼束青年は、そんな立花のことなどおかまいなし。軽やかな足取りで調理場に入ると、コンロに火を点け、包丁を握った。


「~~~~♪」


(鼻歌でっか)


 イケメンに免じてこの状況を諦めることにして、立花は席からぼーっと鬼束の調理風景を見守っていた。

 手際はかなり良い。とてもリズミカルにネギを刻み、てきぱきと魚を捌く。

 立花がチャラいと感じた部分は髪色だけで、料理人としては優秀そうに見える。


「何の刺身?」


 彼の料理に少し興味が沸いた立花は、カウンター越しに声を掛ける。


「ブリですよ。旬ですから。昼間、釣って来たんです」

「君、冗談好きやなぁ。京都やで。近くに海とかないやん」

「えぇ~。僕、嘘つきませんよ~」


 下唇をムッと突き出し、不満そうにする鬼束青年が可愛らしい。体は大きいが、顔にはあどけなさが残っていて、なんだかグッとくるものがある。

 と、気が付いたらそんなことばかり考えてしまう自分は、相当欲求不満なのだろうかと、立花はこっそりため息を吐き出した。


(あかん、あかん。ここはそういう店ちゃうし。今はブリの話や!)


「俺、これだけでええよ。めっちゃ美味そうやし」

「だめですよ! メインは粕汁ですから! ほらほら、ちゃんと座っててください!」


 鬼束青年は指一本だけで、身を乗り出していた立花を席へと押し返すと、銀色の大きな鍋にいそいそと近づいていった。そして嬉しそうに鍋の蓋を開けると、店内にふわりと味噌の香りが広がった。


「わ……。外まで香っとった、ええ匂い……。これやったんか」

「酒粕とお味噌の相性は抜群ですからね」


 鬼束青年がどんぶりのような器に粕汁を注ぐ様子を見て、思わずぎょっとした立花だったが――。


「ふっくらご飯、ブリのお刺身、具沢山粕汁。そして、熱燗で大吟醸雷鬼。きっと、お好きだと思います。さぁ、【がっつり粕汁定食】召し上がれ」

「大吟醸雷鬼? 聞いたことあらへんけど……」


 けれど、聞いたことがあろうがなかろうが、立花の手は熱燗に吸い寄せられていった。

 仕事帰りの酒などいつぶりか。久しぶりすぎて緊張してしまうほどだった。


「んん~……っ!」


 熱燗を一口すすると、ぴりりとしたキレのある辛さが喉を流れていく。思わず気持ちの良いため息が出て、寒さと疲れで強張っていた顔もふにゃりと緩んだ。

 これはブリ刺しとめちゃくちゃ合いそうだと、立花の箸はお膳の奥へと伸びていく。


「ふへぇ……。うまぁ」


 プリっと引き締まった身にほどよく乗った脂のバランスがたまらない。分厚くて味の濃いブリと大吟醸の相性は、予想通り抜群。あっという間に刺身の皿は空になってしまう。


(――で、ビッグサイズの粕汁やけど)


 ゴクリと涎を飲み込む。

 疲れのせいでなかったはずの食欲は、ブリ刺しと大吟醸のおかげで大加速していたのだ。

 ほわりと漂う湯気を「ふぅっ」とひと吹きし、器に口を付けると――。


「あぁ、もう! 分かっとったけど、美味いやん!」


 酒粕と味噌、そして豚肉の脂やごろごろ野菜の出汁が混ざり合い、至高の味になっていた。そして、ご飯が進む進む。三十路で食欲が……などと言っていた自分が恥ずかしくなるほど、箸が止まらない。ぽかぽかと体が温かくなり、掻き込むように定食を食べ続けていると、季節外れの汗まで出てきてしまった。


「くっそ、うま……。飯に大吟醸合いすぎやん。至福すぎるんやけど」


 くたびれた心と体に染みる……とでも言おうか。【がっつり粕汁定食】のお膳が空になる頃には、立花はとろんとと蕩けた顔になっていた。

 このような満足感はいつ以来だろう。過去すぎて記憶がないが、今が多幸感で満ちていることは確実だ。


(ええ店見つけたかも)


 そんな時。


「あの……、それなら時々でいいんで、お店に来てくれませんか⁉ 僕の前でお酒を呑んでほしいんです! お代はいりませんから」

「へ?」


 鬼束青年がこちらの心を読んだかのようなタイミングで謎の依頼を口にしたため、立花の声は裏返ってしまった。

 客としてまた来てほしいという意味なら理解できる。だが、それならお代無料の理由が分からない。なぜ立花が、彼の前で無銭で酒を呑む必要があるというのか。


「えーと、なんでやろ? お酒の試飲係とか? 食品ロス減らす要員とか?」


 首を捻り、思いつく限りを述べる立花だったが、鬼束青年はそんな立花の肩をがっしりと掴み、身を乗り出して「いいえ!」と熱量高く首を振った。


(ち、ちか……っ。イケメンが近い……!)


 カウンター越しだが、距離がかなり近い。立花は鬼束青年に真正面から見つめられ、その目線から逃げられずに口をパクパクさせることしかできない。

 年下相手に顔が赤くなっているに違いなく、そう思うと恥ずかしくて情けなくなってしまう。自分は年上男子好きのはずだが、性癖が塗替えられてそうな勢いがある。


「鬼束君、ちょ、あの……、勘弁して」

「えっ! 嫌ですか? 僕、あなたのために美味しいご飯とお酒を用意しますよ! お願いです! 僕を助けると思って!」

「いや、そっちちゃうくて……。えっ、待って。えっ」


 バタンっと、立花は椅子と共に後ろにひっくり返ってしまった。

 立花の言葉を勘違いした鬼束青年の圧はさらに増し、それから逃れようと大きく仰け反った立花の末路である。


「わ! お兄さん、大丈夫ですか⁉」

「へ、平気やし……」


 恥ずかしくて死にそうだ。もうこの店には二度と来れない……と、立花が背中の痛みを我慢して立ち上がろうとすると――。


「お兄さん、お願いです。また来てください」


 いつの間にか調理場からこちらに出て来ていた鬼束青年が、体を屈め、立花に手を差し伸べてくれていた。その大きな手に、立花は何度目かの胸の高鳴りを感じたのだが――。


(ん……?)


 鬼束青年の頭から、何か小さなものがちょこんと生えていた。彼は長身なので、先ほどまでは頭のてっぺんなどまったく見えていなかったのだが、少し腰を屈めたこの姿勢だと、ソレをはっきりと見ることができた。


「ツノ?」

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