第26話

いつ来ても、忙しく働いている。


 自分の時間なんか、これっぽっちもないんじゃないかって。


 大切なのは、上に住むグランマと、店と、客。それから従業員。


 熱が出たヘルプの為に、せっせと弁当作って届けてやったり、熱が出てると嘘をついてデートする男の為に、慌てて別の従業員呼び出してやったり。体調不良も、サボりも、Tは同じ温度で受け入れる。


 客の靴に付いたゲロを、しゃがんで丁寧に拭いてやる女。シェーカーは上手く振れないくせに、カクテルのステアは天下一品。


 グランマとのポーカーは三回に一回は負けてやる。


 ズケズケ俺に物言いするくせに、あいつが「天馬」と呼ぶ時は、他の誰にもない甘えが見える。慣れ合ってあげてもいい、なんて、プライドの高いネコ科のソレに近い。俺にだけ。


 

 

 そのネコが、ある夜瞳の色を変えた。


『ラスコー』


 騒がしい店のカウンター内にTが呼び出したのは、腕っ節の強い従業員。


『15分前に入ってきた。今左奥、トイレの出入り口に立ってる男』


 Tはグラスを拭きながら、目線は手元のまま話を続ける。


『クスリ売ろうとしてる。現物は多分店の外。問いつめても逃げられて終わりだから、…理由ゼロでシメといて』


 ちらっと、ラスコーに確認の視線を送った。


 眼球の透明の艶。反して無透明の表情。俺は鳥肌が立つ。精一杯何気なさを装って、カウンター下の引き出し式の冷凍庫に氷を移しながら、それでも全身でTの放つ冷気に捕らわれている。心得たもので、ラスコーはTを見ないまま問題の男のいる場所へ向かった。


 すれ違いざま、


『こういう時のTの眼を、見るもんじゃねぇよ。新入りさん』


 ラスコーは忠告してくれたが、それはすでに遅かった。


「…なになに、たっちゃん。最初っから見つめてたの?タイプだったの?その男が」


 俺はあえて彼女を揶揄する時に使う名称を口にして、乾いた喉から無理矢理声を出した。場数を踏んだ俺が、こんなに狼狽するなんてありえないことだった。


 そんなラスコーにも俺にも、全くTは気づいていないのだろう。呑気にグラスを拭き続けていた。


「ん~。空気が変わったからね。あの人、全然気配が違うでしょ」


 この子は、自分が特別なことを知らないのだと――ゾッとした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る