第9話

「チッ」


 普段からは想像もつかない天馬の舌打ちが耳を掠めた。


 それでも振り返らなかったのは、天馬に対する反抗心だ。手を出すなという彼の判断はきっと正しいのだけれど、だからって冷たく放っておくやり方は、誰かさんを思い出して気分が悪かった。


「ここにも落ちてますよ」


 私は迷わず路地に踏み込み、彼女たちから少し離れた場所まで転がってしまった口紅を拾い上げると、何食わぬ顔でそれを差し出した。


 離れた場所から、「あの子、関わんない方がいいのに」と誰かの囁きが聞こえる。きっとそれが正解。ここは近所の商店街なんかじゃなくて、人間たちが複雑な生態系で作り上げた夜の城。トラブルに近付くなというのが、この場所での暗黙のルールなんだろう。


 あ…と声にならない返事で、女の人が口紅を受け取った。


 直後、お前誰だよと胡散臭そうな誰何の声。声の主をこの位置で確認すれば、瞳孔の震えと目の濁った感じで、脱法ドラッグよりも質の悪いものに手を出していることがわかる。だからその人とはあまり目を合わさないようにして、女の人だけに話しかけた。


「大丈夫ですか?もうお店に入った方がいいですよ。必要なら警察を呼んでは?」


 未成年の私がこんな時間にこんな場所から警察に通報するのも問題になると知ってたから、そんな言い方で水を向けた。


「てめぇ誰だよ」


 さっき天馬に掴まれたのとは別の肩を、今度は男に押さえられた。指が食い込み、男のせっぱ詰まった苛立ちが皮膚を通して伝わる。


 そんなにお金が欲しいんだ。…そんなにクスリが必要なんだ。


 私はここでやっと、この人が思うより危険人物なのかも、と気がついた。とりあえず二人を引き離せば何とかなるかな、なんて判断でいた自分の甘さにちょっとだけ反省する。でも、時間は戻せないし、どうせ女の人はほっとけない。


 肩の鈍い痛みをやり過ごしながら、短い時間で色んなことを覚悟して男と向き合った。

 

「なんだ、女じゃねぇか」


 男の目の色が変わった。それは私の性別と、それから年齢に対して生じた余裕のせいだった。


 でも。


「──手を、離せ」


 いつの間にか私の横に立っていた天馬が、何の警告もなして男の腕を捻りあげた。


 ゴリッという、低い響き。


 私はそれが何の音なのかを知っている。


 ──骨が外れる音だった。

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