第89話

部屋に戻ると、澪がテーブルに置いてあったマグカップを渡してくれた。

2人でお揃いで買ったマグカップ。


「…そのマグカップを使ったの、3年ぶり」


ぽつりと呟いた澪が、美咲の胸に刺さる。


「何だか不思議な感じだね。

 ずっと離れ離れでいたのに、今あたしの目の前には美咲がいて…。

 さよならをする前は、当たり前のように美咲がいて。

 毎日毎日楽しくて、いつも笑ってて、怖いくらいに幸せだった…」


マグカップを持ったまま、立ったまま、言葉を発していく。

美咲も立ったまま、澪の言葉に耳を傾ける。


「3年って、短いようで長くて。

 流されるまま、今日まで生きてきた。

 ぽっかりと穴が開いたままの心は、あの頃毎日感じていたときめきも、安らぎも感じなくなっていって…」


それは美咲も同じだった。

忙しさに身を任せ、少しでも虚しさを介入させないように過ごしていた。


いつの間にか上っ面ばかりの笑顔が上手くなり、まともに笑う事さえ出来ずにいた。

心が何処かへ行ってしまったような感覚は、なくなる事はなかった。


「…座ろうか」


ソファーに座る事を提案すると、澪は首を縦に振った。

以前なら寄り添って座ったが、今は幾分かの間を取って座る2人。


美咲はマグカップをテーブルに置き、両手を組んだ。

手は汗ばんでいた。

そう、緊張感がほどけず、震えは収まったものの、気持ちが落ち着かないのは言うまでもない。


澪も美咲と同じように、マグカップをテーブルに置いた。

視線を美咲の方には向けず、遠くを見るような瞳をしていた。


沈黙が部屋に響く。

言葉も無いまま、時間はゆっくりと流れていく。

秒針の音は規則正しく、カチッカチッと時間を刻んでいく。


やっと逢えたのに。

言いたい事はたくさんあるのに、何から口にすればいいのか解らない。

頭の中は当に真っ白で、思うように頭を働かす事が出来ずにいた。


ちらりと澪の手を見る。

その手に触れたいと思うものの、手を伸ばす事は出来なかった。


こんなに近くにいるのに、君を遠く感じる事が寂しかった。

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