第86話

少し下を向きながら歩いていた。

視界に見知らぬ誰かのスニーカーが入る。

その人は立ち止まっているようだ。


顔を少し上に向けた。

スニーカーの隣には、小振りなキャリーバッグが。

旅行の帰りなんかな、そんな事を思った。


少しずつ視線を上へ。

スカートが目に入る。

その人物が女性である事を知る。


更に視線を上へ。

首に目がいく。

あのネックレス…澪にあげたのと同じだ。

「ペアだよ」と言ったら、凄く喜んでくれたな。

いつも着けていてくれたね。



ーあのネックレスは最後の一点だったから、着けてる人は珍しいー



風が吹き、前髪を舞わした。

視界が開ける。

もっと視線を上へ。


相手の顔が見えた。

耳には、王冠のピアスが揺れていた。

セミロングくらいの髪が、優しく舞う。


相手の顔を見る。

驚いたような、切なそうな顔をしていた。


目と目が合う。

初めて君を見た時の事を思い出す。

見知らぬ人達の中、君と目が合って。

暫く見つめ合った事を。


心に浮かぶ、愛しい人の名前。

誰よりも大切な人の名前。


心が震える。

手が震える。

瞳が相手の瞳を捕らえたまま、反らせなくて。


神様、いくらなんでもいきなりすぎるよ。

まさか逢えるなんて、思っていなかったから。



「…澪?」



僅かな間の後に、恐る恐るその名を呼んでみた。

相手は両手で口元を覆った。

瞳は私を見つめたまま。



「澪…だよね?」



もう1度、呼んでみる。

相手は手で口元を覆いながら、そのまま両目を覆った。



「美咲…」



消え入りそうな声だった。

その声が耳に、心に届き、体が熱くなる。

ずっと聞きたかった声。



「澪…ただいま…」



自分も泣き出しそうだった。

必死に涙を抑える。


逢いたかった。

ずっと逢いたかった。



「おかえり…なさい…」



君の声が涙に濡れる。

もっと体が熱くなる。


1歩、また1歩と澪に近付く。

君は溢れ出る涙を拭うのに必死だ。


君に辿り着く。

君が私を見上げる。

涙で赤くなった瞳から零れる涙は、暫く止まる事はないだろう。



「逢いたかったよ、澪」



言葉を噛み締めるように。



「ずっと逢いたかった」



君は何も言えないまま、私の言葉を聞いていたが、ゆっくりと口を開いた。



「あたしも逢いたかったよ、美咲…」

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