第84話

不意にあたしは脚を止めた。



その人はやや下を向いて歩き始めた。



ずっとその人を目で追い掛けているのは何でだろう。



ジャケットの左腕の袖を捲り、腕時計で時間を確認している。



あの腕時計を、あたしは知っている。



貴女が旅立つ前に、クリスマスプレゼントであげたものだ。



人気のある機種だったし、他の人が着けていてもおかしくはない。



その人はまだやや下を向いて歩いている。



あたしとの距離が、少しずつ近付いていく。



その人を下から見ていった。



黒いブーツ。



黒いスキニーのパンツ。



カーキ色の薄手のジャケット。



その下には、黒いTシャツかロンTを着ているようだ。



首元に目をやると、見た事があるネックレスが揺れていた。



貴女がくれたネックレスと一緒だ。



あたしも同じネックレスを今着けている。



「女子が好きなペアだよ」と、悪戯な笑みを浮かべて言った貴女を思い出す。



鼓動がゆっくりと早まっていく。



息をするのも忘れて、その人を見つめている。



その人はまだあたしに気付いていない。



頭の中では、貴女とのいろんな思い出が駆け抜けていた。



上着に入れっぱなしだった携帯が震えている事に気付くも、携帯を取り出す事はなかった。



1秒さえ惜しい。



その人から目を離したくない。



不意にその人が顔を少し上げた。



前髪が左目をほんのりと隠している。



が、風が吹いて前髪をずらした。



顔がよく見えた。



優しくて寂しげな目が見える。



白い肌が、とても綺麗だった。



その人は歩くのを止め、脚を止めた。



その人とあたしの目が初めて合った。



同時に、あたしの心臓の辺りが熱くなった。



名前を呼びたい。



何度も呼んだ名前を叫びたい。



しかし、声を出す事が出来ない。



初めて貴女と逢った時の事が頭に浮かんだ。



時が止まったかのように、貴女と見つめ合った。



全てはそこから始まったと言っても過言ではない。



その人は驚きと戸惑いの表情を浮かべる。



きっとあたしも同じような表情をしているのだろう。



未だに声を出せずにいた。



言いたい言葉があるのに、声を出す事を忘れてしまったかのように声を発する事が出来ずにいる。



その人は、ゆっくりと口を動かした。



あたしを真っ直ぐに見つめながら。



「…澪?」

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