第78話

オフィスにやって来たのは、まだ若い女性だった。

化粧っ気もなく、着慣れていないであろう紺のスーツを着て。

髪は適当に束ねていた。

会社の面接に来たのなら、面接官は即座に渋い顔をするだろう。


家に伺うと言ったのだが、そちらに行くと言われた。

直接出向く人は、なかなか稀だ。


会議室に案内し、改めて挨拶をした。

真っ直ぐ奴を見てみる。

悲しそうな、けど、それを隠しているようにも見えて。


「連絡、ありがとうございました」


外行の声も出さず、素の声で言われた。


「こちらこそ、ご連絡を下さり、ありがとうございます。

 森本先生の作品を拝見させていただきました。

 とても目を引く作品でしたので、是非お話をしたくて」


営業の声で、そう述べた。

すると奴は、やや怪訝な顔をする。

何か気に障るような事を、言ってしまっただろうか。


「…先生って、呼ばないで大丈夫です。

 そんな偉いもんじゃないですもん。

 ただの絵を描くだけの一般人だし」


なるほど。

大体の人は『先生』と呼ぶと、にんまり笑って照れの1つも浮かべるのだがな。

片眉を上げてしまったが、気付かれていないようだった。


「失礼致しました。

 では、森本さんとお呼びさせていただきます。

 さて、早速なのですが、森本さんの作品をもっと沢山の人に見ていただきませんか?

 是非我々が、そのお手伝いをしたく、今回ご連絡をさせていただきました」


売れる、売れないは運や知名度もあるが、こちらの手腕も試される。


「いや、別に沢山の人に見てもらわんでいいです」


予想外の返答に、思わず『はあ?』っと出かけた。


「ど、どうしてですか?

 あんなに素晴らしい作品ですし、もっと沢山の方々の目に触れた方が、森本さんもやり甲斐が得られるので?

 勿論、作品が売れましたら、お金も発生しますし」


「誰かに見てもらいたくて描いてる訳じゃなくて、ただ描きたいから描いてるだけっていうか。

 今回の展示会も、友達に頼まれたから参加しただけですし」


何だこいつ。

気取りたいお年頃か?


「けど、私が描いた作品を綺麗とか、素敵だと言ってくれるのは嬉しい。

 その言葉だけで、私は十分なんです。

 金を稼ごうとか、そんなん思ってなくて。

 それにあの絵は…」


そこで口を閉ざす。

意味があるのは、目に見えていたから、相手の出方を見る事にする。



「震災でなくなってしまった場所。

 思い出を頼りに、描いたものなんです。

 忘れないように、残す為に描いたものだから」



震災



その言葉に、心が切なくなる。

自分は東京のオフィスにいたから、そこまでの被害はなかった。

実家が被災したが、やや山寄りの方だったから、被害は少なかったのが幸いだった。

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