第5話
走る事は出来なくなったが、後輩の指導等を任されているようで、たまに帰る時にグラウンドで後輩を見ている彼女を見かけた事がある。
どんな気持ちで、後輩を指導していたのだろう。
そんな事を思うと、心がもやもやとした。
きっと彼女は、今あたしが感じるもやもやより、もっと大きなもやもやを感じていたに違いない。
「あ、何かごめんね。
勝手に自分の事ばかり話しちゃって。
さて、そろそろ帰ろうかな。
飯田さんは?」
立ち上がった彼女は、隣の椅子に置いておいた大きなリュックを取る。
「あ、あたしは、もう少し残る…」
「そっか、解った。
じゃあ、またね」
読んでいた本を手に取ると、彼女は片方の手をあたしに向けて、ひらひらと左右に振った。
あたしも同じようにすればよかったのだろうけど、慣れていないから上手く出来なかった。
そんなあたしを見て、彼女は悪戯に笑う。
「ねえ、またここで逢えたら、今日みたいに一緒の席で本読んでもいい?」
またしても、思いもよらない事を言われて驚く。
「は、橋本さんさえ良ければ、どうぞ…」
どうもどぎまぎしてしまう。
あたしのコミュニティ能力の低さを、この時ばかりは呪うしかなった。
「ありがとう。
あたしの事は瞳でいいよ。
じゃあね」
そして、彼女は出入口に向かい、静かにドアを閉めて行ってしまった。
足音が遠くなっていくのが聞こえた。
「びっ、びっくりした…」
一気に脱力感に襲われる。
大きく息を吸い込み、大きく息を吐いた。
呼吸もままならなかったようで、少々息苦しかった。
まだ息苦しさが残る胸に手を当てながら、さっきの彼女のように、椅子の背もたれに大きくもたれながら天井を仰ぐ。
家族以外の人と話したのは、いつぶりだろうか。
自分とは全く違う部類の人。
あたしが陰なら、彼女は陽。
光のような彼女の傍にいたら、あたしは影を作る事も出来ないんじゃないか。
そんな事を真面目に考えてしまった。
いつもの日常が、少しだけ変わったような気がした。
長年締め切っていた窓を開け、部屋の中に清々しい風を通したような感覚。
また、ここで彼女に逢えるだろうか。
逢ったら、また本の話を出来るだろうか。
いや、それ以前に自分は上手く喋れるだろうか。
彼女の目を見ながら、喋れるだろうか。
どうやら知らぬ間に、課題が出来てしまったようだ。
こなせるかどうかは…お答え出来ないのが悔しいところ。
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