第64話

息を飲むような美少年がそこにいる。

 

目が大きくて、濡れたような赤い唇で、

走ってきたから、頬は上気している。


ドアノブを持っていた手を離し、

今は自分の顔の高さでドアに手をかけている。


美しいポーズだ。

 

私はその姿を目に焼き付けようと、じっと見ていた。

しかし、涙でぼやけてきた。


もっともっと見たいのに。ずっと見ていたいのに。


「美々子、泣かないで。」

と静かに言って、蘭丸が入ってきた。


入って来て、ドアに向き、ゆっくりとドアを閉める。

 


美少年が、こちらを振り向く。

 

私は立ち上がって、蘭丸を抱きしめたかった。

そして、蘭丸に抱きしめてほしかった。

でも、座ったままでいた。

 

蘭丸が私をじっと見て、私の横に座った。

「美々子、もう泣かないで。」そっと私の髪をなでた。


そして指で涙を拭く。

そこには、いつものような、冗談めかしたエロスは皆無だった。



蘭丸は静かに言った。

「病院で見たんだね。」

 

私は、顔を上げて、蘭丸を見た。

「蘭丸、知ってたの?」

 

蘭丸は、悲しそうに笑った。


「そりゃそうだよ。僕がママだったんだもんね。

いや、違うか、ママが僕なのか。」


と、両手を下ろし、しばらくその手をを見つめた。


「美々子、僕はわからない。

僕は美々子のママなの?」

 

寂しそうな声だった。私は、小さな声で、

「蘭丸は、ママじゃないよ。」と言った。


蘭丸は私を見る。

私も蘭丸を見た。


もう、美少年だ、とか、可愛い、とかの感想は浮かんでこない。

ただただ、蘭丸の寂しさを感じていた。


「美々子、僕は誰なんだろう。

前にインドの神様だって、美々子に聞いたけど、

全然ぴんと来ないんだ。」

「うん、ごめん。あれは、私の思い込みだったかも。」


蘭丸は小さく笑った。

「だと思ったんだ。ほんと、美々子ったら。」


「蘭丸、蘭丸が誰であろうと、私は、蘭丸がそばでいてほしいの。

ずっとそばでいてほしいの。」

私は蘭丸の腕に、自分両腕を絡めた。


蘭丸の腕をぎゅっと抱きしめた。

そして、蘭丸の腕を私の柔らかい胸に押し付けた。

 

蘭丸が何か反応してくれるかと思ったのだが、

蘭丸はじっとしていた。


そしてゆっくりと言った。

「僕たちが、今、激情に流されて、感情の高ぶりのまま、

こういうことしちゃいけないと思うんだ。」


「蘭丸、ごめんなさい。私どうかしてる。」

私は素直に謝った。

「蘭丸が苦しんでるのに。本当にごめん。」

 

そうっと腕の力を緩めた。そして普通に腕を組んだ。


「ほんと、美々子は、エロおやじだなあ。」

と、蘭丸は、前を向いたまま、乾いた声で笑った。


「てへへ。面目ない。蘭丸が苦しんでたから、

つい、そこにつけこんじゃったよ。」

私も笑った。

 

蘭丸は、私を見て、もう一度笑って言った。

「美々子の明るさに、僕は救われるよ。」


「明るくして蘭丸を救えるなら、いくらでも明るくなる。

蘭丸を助けるためなら、なんでもするよ。」

私は、蘭丸を見た。


一生懸命見た。

この、私の気持ちが伝わるように、必死で蘭丸を見た。

 

蘭丸も私を見ている。

そして、私を見ている蘭丸の大きな目が膨らんで、

ぶわっと涙があふれた。

 

その涙を見られるのが恥ずかしいからか、

蘭丸は私から目を背けた。


「美々子、僕は怖い。僕は消えてしまうのかも。」


「やめて、蘭丸。そんなこと言わないで。」

私は立ち上がって、蘭丸の正面に移動し、

蘭丸の頭を抱きしめた。


「美々子、ママがいなくなったんだ。

ママの気配がなくなってしまってる。」


蘭丸は、私の腰に腕を回した。


私達は抱き合った。


でも、もう、彼の髪は濡れてこなかったし、

雨の匂いもしない。

 

私は、蘭丸の頭を抱いてる手を離し、

その手で、蘭丸のあごを上げて、両手で蘭丸の頬をはさんだ。


蘭丸は、まるで、親から急に離されて、

どうしていいかわからない子犬のように、私を見つめた。


「蘭丸。もし、ママと蘭丸のどちらか選べ、

というのなら、私は蘭丸を選ぶよ。」


蘭丸は、まだ私を見つめたままだ。私は続けた。


「蘭丸とママ、ふたりが、会うのはいけない気がする。

なにかの作用が起こるかもしれない。」


「僕も、そう思うんだ。」と、蘭丸が小さくうなずく。


「ママと・・、美々子の本物のママと、僕が出会うと、

スパークが起こって、それで僕が消えればまだいいけど、」

「消えちゃだめだよ!」


「ううん、違うんだ。

僕だけならいいけど、ママに何かがあれば、パパを苦しめることになる。


病室でも、パパは本当に苦しんでいたんだ。見てられなかった。

でも、それでもね、パパは、それはもう心から、

ママに優しく、いつも話しかけていたよ。」


「蘭丸。」

私は蘭丸を見た。


蘭丸は立ち上がり、今度は私の頬を両手で挟んだ。


「美々子。」

私は、蘭丸をじっと見た。


「蘭丸。ママが帰ってくる前に、二人で家を出よう。

二人でどこかに行こう。」


「簡単なことじゃないよ。」


「わかってる。でも、私は蘭丸といたい。」

「美々子。ぼくもだ。ぼくもだよ。」


私たちは、そっと抱き合った。


見捨てられた、弱く幼いふたりの兄妹のように。

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