第63話

父は、手を伸ばして、私の手を握った。

そして話し出した。

 

母は、不思議な患者だった。

意識不明で、身体中を管で繋がれた寝たままの状態なのに、

ある時期から、ときおり、はっきり目覚めていたらしい。


しかし、そんなときも、食べられず、動けず、

最初は、父を見て笑うだけだったと。

 

その、意識が初めて回復したのが、

蘭丸が来た日だった。


 

その日、父が夜中に目覚めると、蘭丸が立っていた。

そして、父に、

「私よ。」と笑った。


父にはすぐわかった、蘭丸がママだってことが。

「美々子には、入院してることを知らせないで。」

と、蘭丸は父に言った。

 

私が、母の不在を不思議に思っておらず、

自分のせいで母が溺れたことも忘れている、

ということなどを、父はいつもICUの母の手を握り、

耳元で話していたから、母はそれを知っていた。

 

そして、好奇心にあふれている母は、

蘭丸になって、しばし青春を甦らそうと、

「ね、パパ、お願い。」と頼んだのだった。


 

そのうちに、蘭丸は、いつの間にか人格を持ち、

母でいる時間が少なくなってきた。


しかし、蘭丸が蘭丸でいればいるほど、

母は回復していたのだった。


「もうすぐ、戻れなくなるわ。」と言ったのが、

回復した母の、最初の言葉だったそうだ。



「蘭丸はどうなるの?」

私は、母の回復も嬉しかったけど、

でも、でも、ママ、ごめん。

 

私は、ママが帰ってくることで、もし、蘭丸がいなくなったら、

と思うと、胸が張り裂けそうなの。



「そもそも、蘭丸はどこから来たの?」

 

そして、怖くて聞けなかったことを思い切って聞いた。

「意識不明だったママの、想像の産物なの?」


その言葉の最後の方は、悲鳴のようになり、

私はテーブルに突っ伏して泣いた。


「蘭丸がいなくなったら、父さんは、また私に催眠術をかけるの?

最初からいなかったかのように?」


「美々子、それは・・。」

「お願い。やめて。蘭丸を私から消さないで。」


「美々子、落ち着いて。

蘭丸君は、まだ消えたわけじゃないよ。」

 

私は顔を上げた。

「蘭丸に電話する。」



蘭丸はすぐ電話に出た。

「美々子、大丈夫かい?検査はどうなったの?」

蘭丸の声は、心配であふれていた。

 

胸が痛くなった。

ああ、そうか。病院で検査だったんだ。

なんだか、遠い昔の出来事のようだ。


「蘭丸。大丈夫?大丈夫なの?

帰ってきて。今すぐ帰って来て!」


「え?状況がよくわかんないんだけど、うん、すぐ帰るよ。

元春も心配してるんだ。」

「あ、そうね。ごめん。元春君に代わって。」

 

土屋君の声が聞こえた。

「美々子ちゃん、どうなったの?ぼくら心配で。」


「元春君、ごめん。ちょっと事情が出来たの。

あの、母のことで。」

「あ。そうか。ごめん、ぼく、家に帰るわ。」


「元春君。」

「美々子ちゃん、また、電話してきて。

ほら、映画も一緒に見たいし。

ていうか、そちらの都合のいい時でいいからね。」


「元春君。本当にありがとう。

蘭丸と同じくらい好きよ。」


「何言ってるの。じゃあね。蘭丸はすぐ帰るから。」

と土屋君は言って、電話を切った。

 


私は父に言った。

「蘭丸はまだ無事みたい。すぐ帰ってくるって。」


父は、席を立った。

「父さん、お昼ご飯まだだから、ランチ食べてくるよ。

君たちには、何か買ってきてあげよう。」


「うん、お願いします。アイスも買ってきて。」

「あはは。アイス好きだなあ。わかったよ。」


「父さん、ありがとう。」

父は、わかってるって感じで手を振って、

リビングから出て行った。


 

私は、自分の部屋に戻って、ベッドに座った。

父が玄関から出る音がする。

私は、一人待っていた。

 

玄関のかぎを開ける音がする。蘭丸だ。

 

脱いだ靴をそろえもせずに、上がってくる音。


リビングを見て、私がいないのを知り、

もうすぐ私の部屋に来るだろう。


 

ノックもせずに、蘭丸がドアを開けた。

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