第60話

家に帰ると、蘭丸と土屋君は驚いて、

「忘れ物なの?」と聞いてきたが、私は首を振った。


そして、蘭丸に、

「父さんが帰ってきたら、話があるって言って。

そして、父さんと二人だけにして。」と頼んだ。


目を反らしたままでしゃべる、私の静かな悲しみを察して、

蘭丸は、

「わかった。」とだけ言った。

土屋君は、ずっと黙ったままだ。

 

私は部屋に戻って、一人で泣いた。 



しばらくして、父がドアをノックした。


「美々子、帰って来たんだって?

検査は受けなかったのかい?何かあったの?」

と、心配そうに私を見る。

 

私は、泣いていたのも隠さず、父をじっと見た。


「美々子。」と言いながら、父は部屋に入ってきた。

後ろ手でドアを閉める。そして、優しい声で、

「そうか。父さんが行くところを見たんだね。」と言った。


私は、父をじっと見つめた。そして、

「父さん、私、思い出したみたいなの。

帰りにタクシーで、川も見てきた。」と、下を向いた。

 

父が、ゆっくり息を吐く息遣いが聞こえた。

私は顔を上げ、父の目を見た。


「私に催眠術をかけたのは、父さんだったのね。」


 

父はそっと首を振る。

「催眠術をかけたのは、父さんじゃない。

ママでもないよ。」


「じゃあ。」

「父さんの友人の心理学者だ。

医者でもあるその人が、取り乱して、

その後何も言わなくなった美々子に催眠療法を施してくれたんだ。

父さんが頼んだんだよ。」


と、父が優しく言い、私に尋ねた。

「何か思い出したのかい?」

 

私は、すぐ答えられなかった。

何を思い出したのだろう。


ああ、そうだ。川の氾濫だ。

そして豪雨。水の匂い。


「私が川に落ちて、ママが私を助けようとして飛び込んで、

そしてママが溺れたの?」

 

実を言うと、あまり覚えてなかった。

映画で見た場面とごっちゃになってる気が自分でもしてた。

 

でも、川の濁流と激しい雨の匂いは覚えている。

ああ、そうか。


あれは、「感情の高ぶり」状態になったときの、

蘭丸の髪の匂いだ。


「ママは溺れて、そして、そして、今、集中治療室にいるのね?」

父は否定もせず、じっと私を見ている。


「ママは、インドになんかいない。ずっと病院にいたのね。」

父は小さくうなずいた。

 

そして、私は、一番聞きたかったことを聞いた。

「・・・ママは、ママは、生きてるの?」


 

父は、私を見て、うなずき、そしてにっこり笑った。

「そうだよ、美々子。ママは生きている。」

 

私は両手で顔を覆って泣いた。


自分でも押さえられないほど、大きな声で泣いた。

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