第59話

ま、まさかとは思うけど、母がインドに行ってる今、

(蘭丸がママにときおり変わるけど、

でも、蘭丸は蘭丸だ。ママの姿をしていない)


父は、じょ、女性が恋しくて、

えっと、たとえば、この病院にお勤めしている、

看護師さんとか事務の人とか、お医者さんとか、

ま、まさか、父が、う、うわ、えっと、ふ、不倫?


でっぷりした父とラブアフェアは似合わない、と強く思うし、

父は母にぞっこんだし。

 

でも、でも、と私は、不安で苦しくなったが、

正直、ちょっぴり好奇心もあった。

 

こっそりあとをつけていると、父はエレベーターの前に立った。

あーあ。探偵もここまでか。

 

一緒のエレベーターには乗れないし。

ダメもとで顔を隠して乗ってみるか。


いや、さすがの父でもわかるだろう。うーん、どうしようか。

 

しかし、探偵はあわてないのである。

私は、父の乗ったエレベーターの、止まる階を確かめた。


そして、止まった階を覚えて、隣のエレベーターに乗った。

 

6Fを押す。

エレベーターの案内板には、6階ICUとあった。


私はまだ、父と病院のスタッフのことを、

あれこれ想像しようとしていたが、

全然なにも浮かんでこなかった。

 

6階に着き、扉が開いた。

廊下はシンと静かだった。

遠くで機械音が聞こえる。


父の姿はどこにも見えなかった。

 

なんだか自分が、バカみたいに感じられて、

私は、まだ乗ったままのエレベーターの1Fを押した。

 

エレベーターで降りているときから、

フワフワした気分だった。

胸の鼓動が、自分にはっきり感じられる。


ゆっくりと呼吸をしながら、私はエレベーターを降り、

1階の広いロビーにある椅子に、そっと腰かけた。



ざわめきが私の耳に戻って来ていた。

見回すとたくさんの人がいる。


知らない人たちばかりが、こんなにたくさんいることに、

私は軽い驚きを感じた。

6階の誰もいない静かな廊下を思い出す。

 

ロビーには、何台かのテレビモニターが天井近くに備え付けられていて、

料理番組や、時代劇の再放送など、てんでばらばらに色んな番組を映していた。


何人かの人が、所在なさげに上を向いている。

 

私も近くのテレビを見上げた。

ニュースをやっていた。

家では、ほとんどテレビ番組を見ないので、ニュースを見るのも久しぶりだ。

 

どこかの地域で局地的豪雨があり、川が氾濫した、

とアナウンサーがニュースを読み上げ、映像に切り替わった。

 

小さい時に、ニュースで、台風の中、

ビニール傘を持って中継している人を見たことがあり、

ひっくり返った傘を必死でつかみ、

レインコートが翻っているその人が気の毒だったが、


今見ている映像は、道路に水があふれ、半分水につかっている車や、

濁流の川を、淡々と映していた。


人が大げさに傘につかまっているより、

ただ氾濫の様子を映しているこの映像の方が恐ろしいと感じた。

 

「怖いわねえ。」と、隣で小さい声がした。

 

はっと横を向くと、

中年の女性が、車椅子の母親らしき人に話しかけていた。


車椅子の老女は、ゆっくりとうなずいていたが、

話が分かってないようだった。

 

じろじろ見てるのは失礼なので、

私はそっとテレビの方に顔を戻した。

 

「この辺りでもあったわよねえ。

春先だったか、ひどい雨だったわ。」

と女性はゆっくりと話し、私は、そっと席を立った。



検査には行かずに、私はタクシーに乗った。


タクシーのお金は病院に払うつもりで、もらっていたのがあった。

タクシーの運転手さんに、私は行き先を告げた。

そこを回ってから、家までお願いします、と頼んだ。

 

運転手さんは、静かな人だった。

女の子が一人で病院から乗って帰るのにも、

途中で寄った場所のことにも、何も言わなかった。

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