第30話

なんだか、気まずい空気のまま、私達は帰途に就いた。


家に帰ってから、蘭丸が

「狭間さんのお姉さんと、土屋君のお姉さんがミス学年を争ったらしいんだ。」

と、ぼそっと言った。


「はあぁぁ。

つまらんこと言った私も、はしゃぎすぎて反省だけど、

狭間さんも、面倒くさい人だなあ。」


「え?美々子、はしゃいだの?あれで?」蘭丸が笑うので、

「うるさい!」と、蘭丸の背中を叩いた。


「あ、そこ、凝ってるんだ。気持ちいい。もっと叩いて。」

言いながら、蘭丸が身体をくねらせる。


「もう。蘭丸は勉強のし過ぎだって。

うー、面倒くさいなあ。ほら、座って。」


蘭丸を床に座らせて、私も座り、

蘭丸の肩甲骨のあたりを叩いたり、揉んだししてやった。


蘭丸は、ずっと向こうを向いたままだ。

蘭丸の背中は、硬くて広かった。


私は、叩くのをやめ、そっと蘭丸の背中にもたれた。

蘭丸がかすかにびくっと動いたのがわかった。


私は蘭丸の脇の下から腕を回して蘭丸の背中を抱いた。


なぜそんなことをしたのかわからない。


「ね、蘭丸。今は蘭丸なの?ママはそこにいてる?」と小さな声で聞いた。


「ママはいない。」と言った蘭丸の声はかすれていた。


そして、私が蘭丸の胸に回した両腕を、ぐっとつかんだ。

私の胸が蘭丸の背中に密着する。


私はドキドキした。

この赤い顔が蘭丸に見えてなくてよかった。


でも、私の鼓動は蘭丸に伝わってる。


こんなに私たちが密接したのは、洗面所で泣いた時以来だ。

あのときも私たちは水に濡れた。


え?あのときも?

そう、今も蘭丸の髪が濡れていて、背中に水が垂れてきていた。


「ちょ、蘭丸?汗?」私が驚いて身を引くと、蘭丸がこちらを向いた。

蘭丸はシャワーを浴びた後のように、頭と顔が濡れていた。


「よくわからないけど、感情が高ぶると水浸しになるんだ。」

と、蘭丸が濡れたままの姿で私を見た。


「待ってて。タオル持ってくる。」

私は立ち上がり、洗面所にタオルを取りに行った。


鏡でチラッと自分の顔を見ると、まだ紅潮したままだ。

「感情が高ぶる」という蘭丸の言葉を思い出し、

私は自分の熱くなった頬を両手で抑えた。



タオルで蘭丸の頭を拭きながら、私は尋ねた。

「さっきの続きなんだけど、」


「ん?土屋君と狭間さんの確執?」

「違う違う。あのね、蘭丸。さっき、ママがいない、って言ってたでしょ。

じゃ、今は蘭丸の意識なの?」


蘭丸はあぐらで座って、膝立ちになった私に頭を拭かれながら、下を向いていた。


「美々子、ぼくは誰なんだろう。

ぼくは、美々子のママなんだけど、でも、ママではない蘭丸もいる。

今がそうだ。」


「蘭丸…。ね、蘭丸の時って、ママはどこにいるの?

隠れてる感じ?隠れてて、今の私達を見てる?」


「いや、そんな感じじゃない。」


「じゃ、消えてるの?突然現れるの?

最初はずっとママだったじゃない。いつの間にか蘭丸になってた。」


私がそう言うと、蘭丸は、顔を上げて、小さな声で聞いた。

「美々子、美々子はママの方がいい?ぼくじゃだめ?」


私を見上げる蘭丸の顔は、見慣れてきた私でさえ、驚くほど可愛かった。


その大きな目は少し悲しそうで、

赤い唇は、官能的というより無防備で幼かった。


私は思わず蘭丸の小さな頭を抱きしめた。

蘭丸の顔が私の胸に当たる。


蘭丸が私の腰に手を回した。

その刹那、蘭丸の頭に水があふれ、私の腕が濡れた。


「感情の高ぶり」という言葉が頭の中を駆け巡る。


蘭丸の、私を抱く腕に力が込められ、

私は、恥ずかしいよりも、

痛いのと濡れて冷たい感覚が大きくなってきてしまった。


「蘭丸、痛いよ。」と言うと、蘭丸が、ぱっと手を放し、

「ごめん、美々子、ごめん。」と謝った。そして、

「もう一度拭いて。」と頭を差し出した。


「ぎゃあ、もう、面倒くさい頭だねえ。それに、」

と、私は蘭丸の頭を嗅いだ。

「水道的なにおいじゃなくて、雨のにおいがする。」


「え?ごめん、くさい?」と蘭丸が離れようとするので、

ぐいっと蘭丸の頭をつかんで、もう一度嗅いだ。


「違う。くさくないよ。雨に濡れたときのにおいを思い出しただけ。

くんくん。ほらもう、シャンプーのにおい、

ん?ちがう。あ!蘭丸!私のトリートメント勝手に使ったな!」


「うわ、バレた。あ、痛っ。ちょっと使っただけじゃんか!

うわ、乱暴だって!」


私は、蘭丸の頭をタオルで覆って、ぐいぐい回した。

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