第81話

「日増しに暑くなりますね」


「暑いと何もしたくないです。

 子供と旦那に夕飯作らなきゃだけど、キッチンは火を使うから暑くて嫌になりますよ」


「暑い思いをしながらも、ちゃんと一生懸命夕飯を作ってるんですし、旦那さんもお子さんも嬉しい筈ですよ」


主婦達が薫と話しているのが聞こえた。

笑顔でそんな事を言われた主婦達は、口を揃えて『薫さんの為だけに作りたいです』

旦那が聞いたら、ショックを受けない筈はない。


「おっはよ、リン」


「…おはようございませ」


「あはは、おはようございませは新しいなあ」


いつもと変わらない声。

いつもと変わらない笑顔。

いつもと変わらない雰囲気。

何もかも『いつも通り』


それが当たり前だし、それが普通なのだが、美鈴にはそれが少し歯痒かった。

あの日、自分だけに向けられた笑顔を、優しい声をもう1度見聞き出来たら。

そんな事を思った自分に驚いたが、表情には出さないように注意を払った。


あれから何かがあった訳ではない。

何かを期待した訳ではないけど。

それまで通りの日常に戻っただけ。


「リン、判子よろしく~」


差し出された受領書。

ふと手に目がいってしまった。

この手に繋がれながら歩いた事が頭に浮かび、瞬時に顔が赤くなった。


「リン、顔赤いけど大丈夫?

 熱中症?」


薫の左手が、美鈴の額に触れた。

周りにいた女性陣は、それを見逃さなかった。


「熱はないっぽいね。

 暑いし、無理しちゃ駄目だよ?

 酒ばっか飲んでも水分補給にはならないんだから、スポーツドリンクとか麦茶を飲むようにね」


薫はそのまま、軽く美鈴の頭を撫でた。

判子を握ったまま、美鈴は直立不動になってしまう。


「早く判子ちょ~だいな」


薫の言葉で我に返り、慌てて判子を押す。


「す、すみません」


「いつもよりぼ~っとしてるけど大丈夫?」


「いつもぼ~っとしてねえです!」


「あ、そっか。

 お酒の事考えるので忙しいから」


「だっからあたしはアル中じゃねえです!」


美鈴とのやり取りに、薫はケタケタと笑う。

そんな薫を見て、女性陣は微笑む。


「はい、熱中症予防の飴。

 じゃあね」


受領書を受け取ると、軽く手を振りながら薫は事務所を出ていった。

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