第3話
「ほんと、変な女。あいつみたいだ」
あいつって誰──そう聞くことはできなかった。
ぐっと首に回された手に力がこもり、男の顔が近づいてくる。頭から齧りつかれるのか、沙耶がふっと身体から力を抜くと男の唇が重なった。
そして思わず目を開けてしまうほどの熱い舌が捻じ込まれて、沙耶はびくびくと全身を震わせる。
「……っ!!」
自分の身体になにが起こったのかわからない。
頭の先から足の先まで熱湯を浴びせかけられているかのような熱さが駆け巡る。痛みはない。ただただ熱い。我慢ができないほどに。
「あぁぁぁっ!」
ベッドの上で身体を弓なりにしならせる。ギシッとベッドが軋む音を立てる。
まずい、音を立てたら鞭を持ってあの人たちがやってくる。いつもなら息を殺すように生活をしているのに頭の中は熱さでいっぱいで、とても階下のことなど考えられなかった。
「なにこれぇっ……いや、やめてっ! 身体が、変になるっ!」
沙耶が狂ったように叫ぶと、男は美しい顔をさらに恍惚とさせて笑った。
「無理だよ。俺たちの唾液は人間に強く反応する媚薬が含まれているからね。少しの量でも動けなくするには十分だ」
媚薬──? 頭から食べるのではないのか。
「君の望み通り、頭から髪の毛一本残さず食べてあげることも出来るけど……」
「ど、っして……っ? そうすれば、いいじゃないっ」
沙耶は荒い息を吐きだしながら、息も絶え絶えに言葉を発する。
「言ったでしょ? 俺たちにも食事の好みがあるんだって。君はさ、俺にずっと食べられていなよ。うんっと幸せにして、死にたくないって言うまで生かしてあげるから」
「意味が……わからないっ。さっさと、殺してっ!」
「だめだって言っただろ? 君のことはたくさん食べたいんだ。ほら、もっとちょうだい。口を開けて」
ふたたび男の唇が重なる。男は沙耶の唾液を啜り上げて、美味しそうに飲み込んだ。
男は執拗に口づけてきては、沙耶の唾液を飲み込んでいく。唇が深く重なるたびに、身体から力が抜けていき、男が言った「食の好み」を漠然とだが理解した。
沙耶は間違いなく今、食べられているからだ。もう指の一本も上げられないほどすべてを男に持っていかれてしまった。
「も……な、い……っ」
掠れた声で言ったのは、これ以上口づけてもあなたが食べられるものはない、という意味だ。男も同じように思ったのか、唇を離してつまらなそうに舌打ちをした。
「君さ、栄養足りなすぎ。人間は食えば肥えるんだから。きっちり食べなよ」
まさか人外の男に自分の栄養状態を説教されるとは思っておらず、沙耶はぐったりとシーツに身を沈ませて苦笑する。
「私に……食べさせて、くれるもの、なんて……余って、ないもの」
このまま死ぬのかもしれない。
案外呆気なかった。沙耶はもう目を開ける力も残っていない。
「しまった。搾り取り過ぎたか」
「ねぇ……」
「ん?」
「あなたの……名前、教えて、くれない?」
自分を看取った人の名前くらい覚えて逝きたい。沙耶が聞くと、男は先ほどよりもさらに驚愕した表情で耳をぴんと立てた。
「……昔、人間に付けられた名前ならあるよ」
「な、に?」
沙耶が聞くと、男は窓の外にグレーの瞳を向けて切なくて、それでいて大事そうに自分の名前を口にした。
「
「稀唯……いい名前、ね」
あまりよく覚えていないなんて嘘だ。直感でそう思った。その人間が男にとってどれだけ特別かということも。
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