第2話

「美味しそうな香りがしたんだ……この部屋から」

「美味しそう……?」

 ほら、やっぱり男の正体は吸血鬼なのかもしれない。それとも猟奇殺人者か。どちらだっていい。覚悟を決めても本能的に感じる恐怖はどうにもならなかった。手の震えは止まらない。そんな沙耶を男は感情のこもらない目で見つめていた。

 沙耶は腕を軽く摩ると、暗闇の中で目を凝らしてもう一度男を正面から見つめる。するとありえないものが視界に入ってきた。

「あ、あなた……その耳……何っ!?」

 思わず沙耶が叫ぶと、男は「どうしてそんなに驚いているのかわからない」という顔で首を傾げる。

「ん……? あぁ、これ? あんたに欲情してる証だよ。普段は隠してるんだけど、興奮すると出てしまう。俺たちは匂いで餌を見つけるんだ……あんたは極上の獲物だね。すごくいい香りがする」

(これは、夢なの──? こんな人間いるはずがないわ……っ、でも、あの耳)

 そういう飾りには見えない。毛の生えた耳は沙耶が話をするたびに、ぴくぴくと音を拾うように動いてその存在を主張する。

 キラキラと光る金色の髪が風に靡き、耳の根元があらわになった。よくよく見ても、ピンかなにかで留められているわけじゃない。

 そして男の目が金色から徐々にシルバーへと変化していく。

「目……の色が……」

 本当にこの男なら、沙耶の髪の毛一本残さず食べてくれそうだ。

 怖いのに、怖くない。いつの間にか手の震えは止まっていた。

 自分では命を絶つこともできなかった。誰かにこの命を終わらせてほしいとずっと思っていた。この男なら沙耶の願いを叶えてくれるかもしれない。

「私を……どうするの? 食べて、くれるの?」

「食べてほしそうな言い方だね。君は変わった女の子だ。人間はみんな俺たちの姿を見ると、助けてくれって命乞いをするのに」

「食べてくれるなら、ちゃんと殺してほしい。下手に生かさないで」

「ちょっと待ってよ。頭からバクバクと食べるとでも思ってるの? できないわけじゃないけどさ、俺たちにだって食事の好みがあるんだよ」

 人間じゃないのに、ずいぶんと人間らしい男だと感じる。食事の好みだなんて。

 生きるためになんでも口にする沙耶とは大違いだ。

「食べて、もらえないの?」

 男の手が沙耶の首にかかった。痛かったり、苦しかったりするのは嫌だなと思った。どうせなら、一瞬で頭からばくりといってほしい。

 沙耶がきゅっと目を瞑ると、男は楽しそうにクツクツと声を立てて笑った。

「死にたいのに、俺が怖いんだ?」

 沙耶をからかってるような口調だ。男性の野性味を感じない風貌のせいか、どこか軽薄な口調のせいか、恐怖が呆気なく霧散してしまう。

「あなたが怖いわけじゃないの。痛いのと苦しいのが嫌なの」

「じゃあ、気持ちがいいのはどう?」

 男の手が、沙耶の頬を優しく包みこむ。

 誰かにこれほど大切に扱われたことなど一度もなかった。そのせいで殺されそうになっているのに、沙耶の心は幸せに満たされている。

 たったこれだけのことで幸福を感じられたのだ。生きていてなに一ついいことなどなかったけれど、最後の最後にあったじゃないか。

「ありがとう」

 首に手をかけられたままの沙耶が言うと、男は目を丸くした。人じゃない者も人並みに驚くのだとわかって、沙耶は小さく笑い声を立てる。

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