第89話

ホテルに戻り、風呂と夕食を済ませ、2人で晩酌をしていたが、疲れもあってか、蓮は先に寝ると告げた。


「ゆっくり休んで下さい。

 明日の新幹線の時間は夕方ですから、のんびり買い物でもしたり、ご飯を食べたりしながら帰りましょう」


「解った。

 あんたはまだ飲むんか?」


「ええ、もう少しお酒を楽しむとします。

 大丈夫、酔って蓮に襲い掛かったりしませんので」


「ぶ、物騒な事言うなっての。

 とにかく、先に寝るから。

 おやすみ」


「はい、おやすみなさい」



寝る仕度を済ませた蓮は、そのままベッドに向かい、体を布団に潜らせた。

目蓋を閉じ、暫くすると、いつの間にか眠りに落ちていた。


日本酒の瓶と、コップを持ち、窓際にある椅子に腰掛け、目の前のテーブルにそれらを置いた。

窓をからからと開ければ、優しくも怪しい海の音が、遠くから聞こえてきてゆっくり耳に届く。

目蓋を閉じ、波の音を肴に、コップに残っていた日本酒を味わっていると。



「よう、自称『神様見習い』の幸福の神様」



すぐ傍で声がしたが、椿はそちらを見る事をしなかった。


「晩酌相手がいないなら、ワタシが付き合ってやろう」


声の主はそう言いながら、椿の向かいの椅子に腰掛けた。

指をパチンと鳴らすと、テーブルにおちょこが1つと、新たな日本酒の瓶が現れた。


椿は目を開け、目の前にいる相手を少し見たが、すぐに窓の方へと視線を移す。

わざとらしく大きな溜め息を吐いた椿を見て、その人物はにいっと笑う。


「久々の再会だ、もっと可愛らしい顔を見せてくれてもいいんじゃないか?」


手酌でおちょこに酒を注ぎ、おちょこを持つと椿に向ける。

乾杯しようという意図をくみ取るも、椿は自分のコップを相手に向ける事はない。

相手は益々楽しそうに笑う。


「ワタシにも、あの人間に向けるように笑ってくれいいんだぞ」


「お断りします。

 あたしは笑顔を安売りするタイプじゃないんで」


やっと椿は口を開いた。

嫌悪感を惜しみなく表情に出しながら。


「ははっ、いい顔だな。

 今夜は酒が美味くなりそうだ」


くいっと酒を飲み干すと、相手は満足げな顔をしてみせる。

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