第57話

『蓮、あたしは何て言われても大丈夫ですから、とにかくその拳をクソババアにぶつけちゃ駄目ですからね』


理性が無ければ、きっと楽なのに。

感情のままに、相手をいたぶる事が出来ただろうに。




ああもう、面倒くせえなあ




頭にその言葉が浮かぶと、拳を握っていた手から力が抜けた。

お局に視線を向け、真っ直ぐに捕える。


そして、素早い動きで蓮はお局の作業着の襟を片手で掴んだ。

いきなりの出来事に、お局も状況を把握出来ずに、瞬きをしている。


力を込めて掴んだ襟を、僅かに自分の方に引き寄せた蓮は、静かに口を開いた。


「おい、もうそれ以上喋んな。

 あんたの声、不愉快なんだよ」


落ち着いた声で言った蓮に、お局は全身で恐怖を感じる。


「もうこれ以上、我慢すんのも馬鹿らしい。

 そもそも、我慢する必要なんて、最初からなかったんだよな」


ギリギリと掴み上げていく。


「私の事は好きなだけ言えばいい。

 蔑もうが何だろうが、好きに言えばいい。

 けどな」


更に引き寄せる。




「彼奴の事を悪く言うのだけは、絶対に許さない」




怒りが何処までも沸いてくる。

蛇口が壊れた水道のように、いつまでも溢れてくる。


「ちょ、ちょっと何よ。

 何でそんなに怒ってる訳?」


「お前が私を怒らせたんだろ」


淡々と答える蓮が、より怖さを引き立てる。


『お、落ち着いて蓮!

 あたしは大丈夫ですから』


椿の言葉は届いているが、蓮は答えなかった。


「彼奴の事、悪く言った事を詫びろ」


「彼女の事、そんなに好きなんだ?

 お熱いのね」


「謝れって言ってんだよ」


蓮の鋭い目が、お局を捕えて離さない。

背筋に冷たいものが走ったお局も、少しずつ慌て始める。


「そ、そんなにムキになる必要ないじゃない。

 わ、悪かったわよ。

 だからもういい加減離して、ね?」



ただならぬ雰囲気に、周りもざわつく。

と、1人の作業員が電話で誰かに話を始めた。

そして、程なくして課長がやって来た。

思いもよらない状況に、課長も驚きを隠せなかった。


「ちょ、ちょっと水野さん、どうしたの!?

 中田さんの事、離してあげて!」


慌てて2人を引き離した課長は、お局に寄り添う。


「一体何があったんだい?」


「あたしが話し掛けたら、水野さんがいきなりキレたんですよう」


わざとらしく泣きそうな雰囲気を出しながら、課長に言うお局。

蓮の怒りは、収まる筈もない。

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