第2話 挙棋不定

 怒っているというよりは、面倒臭いことをしてくれて、という顔で、螺旋階段の中ほどから作業着姿のおじさんが見下ろしていた。


「なんだあ? 女子高生?」

「えっと……ごめんなさい。扉が開いていたので……」


 一応殊勝に謝ってみたものの、階段を下りてくるおじさんの疑いのまなざしは晴れるわけもなく。


「開いてたぁ? あれは開いてたどころじゃなくて、ぶっ壊してっていう感じだったけどな?」

「わ、私じゃないです! あれは、本当にそうなってて!」

「ふぅん。その制服は確か……三辻みつじ……ん? 違うか?」


 近づいてくるおじさんから、一歩二歩と後退る。

 かかとがケースに当たって音を立て、思わず振り返った私の手首をおじさんは捕まえた。


「気をつけろ!」

「ひゃん! ご、ごめ……」


 見つかったときよりも荒げられた声に、身が竦む。


「お嬢さんから見ればゴミみたいなもんかもしれないがなぁ! 貴重なものなんだよ!」


 折れたチョークが? 何か、特別な材料でできてるとか?

 ごめんなさい、と、もう一度しおらしく謝ってから、上目遣いでおじさんを見上げる。小言だけで返してくれるだろうか。それとも、家までついてきて親に話されるだろうか。できれば穏便に済ませてほしい。

 おじさんはそんな私よりも、ケースの中身が心配なようで、私の肩越しに覗き込んでいる。眉間に一本皺が刻まれたかと思うと、掴んだ手をぐいと引っ張られた。


「ちょっとどけ」


 そのまま屈みこんでケースの中を真剣に確認している。

 どう見たって、何度見たって、折れた白いチョークがあるだけだ。

 おじさんは私を睨みつけるようにして振り返って、それを指差した。


「……あんたが来た時、この中身は何だった?」

「……折れた白いチョーク」


 変なことを聞くなと思いつつ、見たままを答える。


「他には?」

「他? それしか見てない」

「くそ。荷物下ろせ。持ち物チェックする。ポケットの中身もな」

「えー!? 私、疑われてる?!」

「あんたしかいないんだから、悪いことしてないならおとなしく従え」


 渋々リュックを下ろして、はたと気付く。


「私、男子とすれ違ったけど」

「は?」

「壊れた扉を覗いた時、中から出てきたの」


 疑わしそうに眉を顰めつつ、おじさんは訊いた。


「同じ学校の?」

「ううん。知らない制服だった。グレーのブレザーの……「中は危ないよ」って言われて」


 一通り鞄の中のチェックを終えると、おじさんは元のように詰め直していく。


「……まあ、ひとまず信じてやるか。嘘だったらげんこつ落としに行くからな」

「嘘じゃないし……それ、なんなんですか?」


 もしかしてチョークじゃないのかと、私も屈みこんでケースに顔を近づけてみた。怒られそうなので手は出さない。


「タイムマシン」

「はい?」


 なんの冗談かと笑ってやろうとして、チョークがちかりと光ったことに気を取られる。同時に窓もない地下室に風が吹いた。ショートボブの短い髪がかき混ぜられ、リボンと襟がはためいて、校章が強烈な光を放つ。

 思わず目を閉じた私の手を、誰かが握ったような気がした。



 *



「サヨコちゃんもほら!」


 手に何かを押し付けられて、我に返った。

 じっと見てみれば、黄色いチョークだった。


「どうしたの? 寂しいのはみんな一緒だよ……ほら、書こ? 書いて写真撮ろうよ」


 私は腕を伸ばして空いているスペースにメッセージと名前を書く。「サヨコ」……

 あれ。おかしいな。私、サヨコじゃない。

 だけど、今日は卒業式で、教室の黒板にみんなで色々書き込んでいるというのは理解している。インスタントのカメラを回して、かわるがわる写真も撮っていく。

 なんだろう。あれだ。夢、みたいな。

 みんな知らない顔なのに、この場では仲間だとわかる。卒業なんて、まだ先の話なのになぁ。

 半分覚醒しているような不思議な感覚のまま、時間が過ぎていく。


「ああ、いた! こら、君たち、名残惜しいのはわかるけど、そろそろ帰りなさい」


 教室のドアを開けたのは、用務員さんだった。

 ベージュの、作業着つなぎを着た……

 私たちは渋々荷物を抱えて教室を出る。最後にもう一度黒板を振り返って――用務員さんに腕を掴まれた。


「なんかおかしいと思ったんだよ」

「え?」

「その制服、のと違うだろ」


 見上げた用務員さんの顔が、地下室で会ったおじさんの顔に見えてくる。少しの混乱のまま、腕を引かれながら教室内へと戻った。

 おじさんは黒板のところに置いてあった黄色のチョークを取り上げて、それを私の手に押し付けると、今度は胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出して何やら書き始めた。その間も私の腕は掴まれたままで、なんだか居心地が悪い。

 折りたたんだメモを黄色いチョークと手のひらの間に挟むようにして、今度はズボンのポケットからどんぐりを取り出した。

 どんぐりはチョークとは反対の手に握らされる。


「お嬢さん、自分の名前は言えるか」

深山みやま月果つきか

「よし。今、確実に帰れるのは一人だけだ。あんたは戻ったらそのチョークとメモを最初に出会ったヤツに渡してくれ」

「一人? 帰れる? どういうこと?」

「上手く帰り着いたら説明してやる。いいからそのどんぐりを握りつぶせ」


 訳がわからない。やっぱり夢を見てるんだろうか。

 そんなことを思いながら、私は素直にどんぐりを握った。それは卵の殻のようにあっけなく割れて、中から眩しい光が溢れてきた。たまらず、目を閉じてやり過ごす。

 光が落ち着いたかなと思ったら、がたりと誰かが椅子から立ち上がる音がした。

 そっと、目を開けてみる。

 

 目の前に、白衣を着て眼鏡をかけたお兄さんが、顔をこわばらせて近づいてくるところだった。

 え? 何? 誰? どこ?

 手の中には黄色いチョークとメモ用紙、そして、どんぐりの帽子が残っている感触がある。

 わずかに見渡せば、どこかの部屋の中らしい。まだ新しい建物の匂いがする。


「君、どうして……」


 かけられた声にハッとして、私はおじさんが言ったことを思い出した。

 「最初に出会ったヤツ」って、この人でいいんだよね?


「あ、あの、おじさん、おじさんが……!」


 訝し気な顔をするお兄さんに、両手を押し付ける。


「こ、これ! 渡してって……!」


 お兄さんはひとまず受け取った物の中からメモを選んで目を走らせると、ちょっとだけ眉間に皺をよせてから、こちらを見た。




「……なるほどね。「小夜子さん」がお祖母さんで、その制服もお祖母さんのだと。当時、たちの悪い病気流行ってたからね。ほとんどジャージで登校だったとか」


 一通り話して落ち着くと、佐伯と名乗ったお兄さんは顎に手を当てて考え込んだ。

 おじさん(風見さんというらしい)の誘導員ナビゲーターだと自己紹介してくれたけど、仕事のパートナーという認識でいいのだろう。

 私の制服の背中には、襟の隅に丸が三つ重なり合った三つ葉のような模様がある。今の制服にはこれがないのだ。ちゃんと許可を取ったので、学校公認である。

 佐伯さんはふっと妖しい笑みを浮かべると、立ち上がった。


「うん。手伝ってもらおうかな」

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