四人目
2
ふかふかな枕とシーツが顔横に触れて思わず口元がだらしなく緩む。ああ、こんなにふかふかな布団で寝れるなんて幸せすぎる。
あたしの布団ってこんなにふかふかだったかな。ベッドもいつもより全然広い気がするなあーと両手をだらりと伸ばしてみる。
いつもならそんな風に伸ばせば片手がベッドから垂れ下がっていたはずなのにそれも今は無い。
なるほど、ああ、これって夢か。こんな心地良い夢ならもう少し見ていたいぞ。
「おーい」
――――――何?
微かに知らない声が聞こえてきた。ふわふわと頭上から落ちてくる声だ。
まだ寝ていたいんだから起こさないでくれ。もう少しこのふかふかなベッドの中に居させてほしい。
「おーいー……や……」
けれどまたもあたしを呼ぶ声が頭上からふわふわと落下してくる。
お母さんの声ともお父さんの声とも違う、ふにゃふにゃとした舌っ足らずな甘い声だ。いったいこれは誰の声だろう、声に誘われるままにゆっくりと薄目を開ける、と。
「愛理ちゃん朝やで?おはよ」
視界の中いっぱいにオレンジ色の美少年。にこにこ笑顔の優があたしのベッドの横に腰かけてあたしの顔を頭上から覗き込んでいた。
「お…はよー…」
掠れる声のまま挨拶だけはしっかり返し、布団をずるずると目下まで引き上げる。朝からこんな眩しい笑顔の美少年に見下ろされるのは慣れない出来事すぎて困る。
「うん、おはよ。俺学校いかなあかんから。愛理ちゃん適当に家漁ってええから、暇潰しておいて。夕方くらいには帰ってくると思うから」
学校――――、ああ、優は大人っぽいけどまだ高校生なんだっけ。ボンヤリと記憶を手繰り寄せながらも上体を起こして部屋を見渡してみる。
ふっかふかのあたしが眠るダブルベッドと中身は空っぽだったけどこの部屋に入った時から置かれていた大きめのタンスが置いてあるだけの部屋。ここは優の住むマンションの一室だ。
「後ね、携帯なんやけど。愛理ちゃんの携帯に俺の電話とアドレスも勝手に入れておいたからなんかあったらいつでも連絡してきてええからな」
優が優しくポンポンとあたしの頭を撫で、あたしの手に携帯を渡してくる。勝手に人の携帯いじったんかーい!と突っ込みを入れたかったが、優のくしゃくしゃとあたしの頭を撫でる仕草にぐぐぐっ、押し黙る。
「ほな行ってくる」
「あ!!ちょっと待って」
あたしの頭からゆっくりと手を離す。何となくそれが名残惜しいなと思っていると、優はさっさと部屋から出ていこうと足を外へと向けた。それを見て反射的にベッドから飛び降りて、優の背中を呼び止める。
片手を伸ばしたものの掴み損ねて結局、空を切る羽目に。
無意味に掴み損なった手が行き場を失いだらりと落ちる。それが恥ずかしくて両手を合わせるように交差させ。
「い、いってらっしゃい」
もじもじとそう答えておいた。
この部屋の住人でも無いのに、言った後から何を言っているんだと恥ずかしくなったけど、押し黙ったあたし同様に優も。
「………」
大きな瞳をパチンパチン何度か瞬き、口をむむむ何故かへの字に曲げて黙ってる。瞳だけはあたしにしっかり向いたまま。
―――――そうして数秒後。
「―――ん…行ってきます。」
おずおずとそう答えた優は静かに寝室の扉を閉めて出て行ってしまった。廊下をひたひたと歩いて遠くなっていく足音が微かに届く。何となく気恥ずかしくて玄関までは送れなかった。
数秒前の優の顔が脳裏で揺らめく。一瞬だけ、どこか懐かしむような切ないような顔をしてた気がしたけど。気のせいだったのかな。考えても答えは出ないので早々とその考えを消し去っておく。
優が出て行ってしまってからふと思う。
あたしは何をしたらいいのだろうか。
優はいつまで居てもいいと言ってくれた。あれはたぶん本心…だと思う。昨日の優の感じだと何か裏がある感じはしなかったから。
だけど、どうしてあたしみたいなどこの誰かも分からない女を置いてくれるのかな。
うーん。うーむ。顎に手をかけつつ頭をぐりん、傾げてみる。茶金の長い髪が肩から滑り垂れ下がる。
―――――駄目だ。やっぱり考えても分からん。
だけど、勝手にお礼も言わず出て行くのはそれはそれで気が引ける。優が帰ってきてからお礼を言って出て行こう。昨日泊めてもらえた事だけでも感謝しなくては。
まだあたしの行き先は決まってはいないけど、いつまでもここに甘えるのはいけない事だと思うから。
よしっと気合を入れて寝室を出る。寝室から出た廊下も、部屋一つ一つも本当に高級感溢れる部屋だ。
男の子なのに綺麗に片付けられてるし。見渡しながらこういうのって性格が出るよね、と感心。
これが翼の部屋ならきっとゴッチャゴチャだと思うな。
空の部屋ならきっと見てはいけないものがたくさん置いてある気がする。
たぶんあの異色な三人組がうまく仲良くまとまってられるのは真ん中に仲裁的存在の優がいるからだと思う。それに…あの三人っていったい何者なんだろうか…。
ただの高校生には見えない。昨日の出来事を思い出せば普通だとは到底思えない。本当は気になって仕方が無いけれどーーーーーまた翼が煩くなりそうだからこれはあたしの心の中だけで思っておく事にしよう。
丁度、考えの区切りが着いたところだった。
――――ブーブーブー。
優に先ほど渡されたあたしの携帯がポケットの中で震えだしたのは。
「おっと」
誰からだろうとポケットの中から携帯を引き抜き画面に視線を落とす。新着メールのマークに受信ボックスをすぐに開くと新着メールの送り主は優からだった。さっき教えたばかりなのに律儀な子だと思いながら内容を確認。
【愛理ちゃん、目え覚めた?冷蔵庫の中勝手に漁って食べてええからな。帰りはまた翼と空が一緒に来るかもしれんけど、気にせんで居てええから】
何となく心を読まれた気がするぞ。
うむ、と頭を無意味に一度縦に振り、返信分は簡潔に纏めたものを送り返した。女子としていかんと思われる簡潔すぎる内容を。
【了解しました!】
たったこれだけを。
短めに送り返した画面を確認し、リビングに入る前に台所へ行ってみようと、足を向けていたそれを一旦Uターンする。――――と言ってもどこが台所なんだろうか。
きょろきょろと廊下を見渡すと一つだけガラス張りの部屋を見つけた。すりガラスになっているそのドアの前に移動し、ドアノブへと恐る恐る手をかける。
優は好きなようにと言っていたけど、人様の部屋を勝手に漁って確認するのは気が引ける行為だ。
そろり、ドアを開けると台所らしき内装を確認。ビンゴである。
「おおっ。野生の直感的な」
台所を見つけた事でテンションが上がったあたしは恐る恐る、台所の中へと足を向け言われた通りに冷蔵庫をパカリ、開けて中を確認。
「ビールが何本かとお肉と卵とあと野菜が少し。」
中身確認をついつい声で出した後、頭を抱える。優くんあなた、ビールって未成年でしょ。しかし、そうだな、ふと考えてみると翼が呑んでいるところを想像した方がしっくりくるかもしれない。奴か。奴なのか。
何て悪い学生だと思ったけど、自分も過去を振り返ってみたら人の事は言えなかったので口を曲げた。
勝手に食べていいと言われたけどこの材料かーーーオムレツかな。オムライスでもいいな。ご飯はあるんだろうか。
腰を上げて確認しようとした矢先であった。
「優ちーん!聞いてよ、またそーちんとつーちん俺の事置いてったんだっ、よ」
――――ガチャリ。軽い声色と、荒々しくドアを開ける音が同時に重なった。
陽気な声とともに台所に現れた謎の赤茶色髪の男の子。華奢すぎる彼の体を見た時は、一瞬女の子なんじゃないだろうかと思ったが、着ていた制服が男性物だったから男の子なのかと把握。
驚くほど可愛らしい子だ。
そんな彼と見つめ合いしばしの沈黙。
あたしは驚きすぎて手に持っていた卵を落としてしまった。
赤茶色の男の子も驚きすぎたらしく手にもったコンビニ袋が手からずり落ちた。ドサっ。
効果音が二つ、ぐちゃっ、ドサっ!ある意味見事にはもったその後。
「「だ…誰?」」
言葉まで綺麗にはもってしまった。
ふと頭に昨日の空と翼の言葉が蘇る。「隼人嫌がんぞ…」そう言っていた言葉を右から左に流していたはずなのに何故か鮮明に思い出された。優ももう1人居るみたいなことは言っていたし。
―――――――と言う事は。
あたしが答えに至った間に、あちらも何かしらの答えには至ったらしい。笑顔で台所に入ってきたあの表情に比べると今はやけに蒼白で眉間に濃いシワが刻まれている。
何を言うのかと思えばーーーーー。
「そ、そそ、そーちんの女か?」
一歩一歩後ずさりガラス張りのドアにガシャンと頭をぶつけながらもおずおずと問いかけられた。
何故にそんなに怯えるのですか。
「落ち、落ち着いて!そそ、空の女じゃないよ。ちょっと色々合って優に昨日泊めてもらっただけなんだ…」
慌てて立ち上がってぶんぶん首を横に振っておく、あのエロ男の女とか勘弁してくれ。その誤解だけは解かねば。
「色々?…優ちんはなんも言ってなかったけど…」
「そ…そうなんだ。でもあたし今日中には出て行くつもりだから、そ、そんなに怯えんでくれ!お邪魔しててごめんね」
鋭い視線で睨んでくる赤茶色の男の子にびくびくしながらペコペコ頭を下げて謝る。そりゃ、何も聞かされていなくていつも通り家に遊びに来てみれば見知らぬ女が居たら怒るしびっくりするよなあ。
「優ちんは…学校行ったのか…?」
「うんうん!夕方には帰ってくるって言ってたかな。一応お礼だけして帰ろうと思ってまだここに居たんですけれども…えっと…あの…その」
言葉が続かない。お邪魔してます?お世話になっております?何にしたって不自然だ。
頭を捻りうんうんと考えているーーーーーと。
―――――ぐぅぅぅ~。
盛大な腹の虫が前方から聞こえてきた。
あたしは目をパチパチと瞬きながら目の前の男の子を見た。
自分のお腹の虫が鳴った事に暫く気付かなかった男の子は「……」バっと自分のお腹を一度両手で押さえ蒼白な顔を今度は真っ赤に染めていく。忙しい子だ。
下に落ちたコンビニ袋の中からオニギリがコロンと転がって出ていた。
「「……………」」
暫く二人で見つめあう。すると、男の子はオニギリを慌てて袋に戻し、くるりと向きを変えて部屋から早足で立ち去ってしまった。
驚くほど早い行動に一瞬ついていけなかった。
―――――え?一瞬思考停止したあたしもハっとして慌てて男の子を追いかけて部屋を飛び出す。
「ちょっとちょっと、待って待って!」
廊下をひた走れば既に玄関でわたわたと靴を履いている男の子の背中が見える。行動早いな!!!その背中を呼び止める。
あたしが追ってくるとは思わなかったのか男の子はこちらに勢い良く振り返り、むぎゅっ、唇を噛み締め目を見開いた。赤かった顔がまた真っ青だ。それも尋常では無いほどにビクリと肩を上げていて。
「く、来るなよ!!」
「ひっ!ごめんなさいっ」
「……」
「……急に居なくなったから、ついついあたしも必死になって追いかけてしまいました。そんなに化物みたいに見えた?」
髪を振り乱す恐ろしい化物でも見たような反応だったからそれはそれで女としては傷つくのだが。深手を負ったぜ。
くっ、心臓を片手で鷲掴むあたしに男の子はおずおずと一度閉じた口を開いた。
「……俺、女苦手なんだ…」
また後ろに下がりすぎて玄関にガツンと頭をぶつけてる。
そんなにぶつけて頭は凹まないんだろうかと心配になるんですけど。
でもそんなふざけた思考も目の前の男の子と目が合った時には吹っ飛んでいた。
あたしよりやや大きめの身長。目がくりっくりだ。大きくて羨ましいくらいに。赤茶色の前髪を上にちょんっと結んでいて、制服の着方もハッキリ言ったらだらしない。威嚇するように視線だけは鋭いのに、その子はあたしを見て震えていた。
きっと翼達が言っていたのはこの事なんだと思う。あたしが来たら嫌がるって…ああ、そうかあ。そうなんだ。
「…あ」
あたしはその子を呼び止めようと伸ばしていた手をゆっくりと引っ込めた。
2人で視線を絡ませたまま何となく逸らせなくなる。あたしもその子も。ただただその間も華奢な彼の体はカタカタと音が聞こえるほど震えていて。
「だ……大丈夫?」
かけようか、かけまいか、悩んでいた声が咄嗟に口をついて出た。
見るからに大丈夫では無いだろうに、大丈夫?その言葉しか浮かばなかった自分に何となく苛立った。もっと他に良い言葉がかけられなかったのかと。
小さい子供に話しかけるみたいな言葉しか浮かばない。こんな接し方をされたら気を悪くするかもしれないのに。
でもどうしていいのか分からない。
行き場を失った手を握り合わせる。
「びっくりさせてごめん。…あたし、外に出てるから…優にお礼だけ言いたいだけだから…」
「……優ちんが……家で待ってろって言ったんだろ?じゃなきゃ優ちんが…家に女を上げるわけないーーーと思うし」
「…でも君が」
「俺が出るからお前はここに居ていいよ。気……悪くした?」
上目使いで問いかけられドキドキする。かっわいいなーなんて不謹慎な事を思ってしまう。
「悪くしてない!大丈夫だよ」
今までにない満面の笑顔で答えられたと思う。たぶん今、鏡を見たら自分でも驚くくらいの笑顔が映ってるだろう。
「俺…女が…怖い…男なのに情けねえだろ」
あたしの顔から自分の靴に視線がずれていく。暗い顔をする男の子はどうして女の人が怖いのか、あたしには良く分からない。だけどきっとそれだけ嫌な出来事があるんだと思う。ただの勘でしかないけど。
あたしは首がちぎれんばかりに頭を勢い良く横に振った。ブンブンブンブン、髪が振り乱される。
それに気づいてゆっくり視線をあたしに戻す男の子。
暗い顔をしないでほしい。そんなに可愛いくてかっこいい顔してんのに勿体無い。暗い顔は似合わない。
「そんな事ないよ。そんな事ないから!あたしの事怖い?」
両手をぎゅっぎゅ、交差させたまま本当にゆっくりゆっくり男の子に近づく。近づいてくるあたしに「…ひっ」やっと小さくなっていた震えがまた戻りだす。ここで立ち止まるべきなのだろうか。
一瞬迷ったけど立ち止まったらこの子はまたその気持ちから抜け出せない気がした。
だから優しくゆっくりその子の手を握ってあげた。驚くほど冷え切った手を両手で覆い隠すようにして握り締める。一瞬ビクっと震えた男の子にとても哀しくなった。
自分が拒絶されたのが悲しかったんじゃない。
こんなにもこの子に大きな傷をつくった出来事って何なんだろう。それを思って哀しくなった。
あたしに握られている自分の手を蒼白な顔で見つめている男の子。冷えた手を揉むようにしてぎゅっぎゅと握り合わせて口元を緩める。
「……大丈夫だよ」
少し驚いた顔であたしに目を向けた男の子に優しく語りかけるとだんたんと顔にも色が戻っていく。
ぎゅっぎゅ、握り合わせるあたしの手に一度だけ視線を落とした男の子は確かめるようにしてゆっくりあたしの手を握り返してくれた。
さっきまでの震えが嘘のように止まっている。
よかった。一か罰かの賭けだったから。失敗したらどうしようかと思った。
「名前、言い忘れちゃったね。あたし宮森 愛理って言うんだ。よろしくね」
「…藤堂 隼人(とうどう はやと)」
微笑むあたしを見て、ぎこちなく、ゆっくりと微笑み返した男の子はまだぎこちなくもそう言った。
ほら。やっぱり笑った顔が凄く似合うじゃないか。
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