第56話
ふと、頬に何かが触れる。
はらり、と。
目に映ったそれが美しくて。
貴女と共に見たいと思った。
「亀寿…」
名を呼んで促すと、亀寿はそっと閉じていた目を開く。
そして二人で共に月明かりの中の世界を見上げた。
それに、小さく笑う。
「…まるで…雪のようだ。美しいな…」
私達の前に舞い上がるのは、一吹きの風に攫われ…まるで雪のように舞い散る桜。
雪はただでさえ色のない私の世界を本当に銀世界にしてしまうから嫌いだったのに、雪のようなこの桜はただ美しいと思う。
…おかしなことに。
そう苦笑いして、数多の桜が月光の中を舞い踊るその中にそっと手を差し出した。
————————愛おしいと思って。
…この桜が。
ふと、この手のひらの中に花弁が舞い降りる。
それを見て、綺麗…と。
この手の内を覗き込む亀寿に、ふと初めて出逢ったあの聚楽第での日を思い出す。
あの日も私が渡した狂い咲きの桜を見て、綺麗だと言ってくれた。
あれが、私達の始まりだったのかと思うと。
その思い出すら愛おしくて。
また同じように私の手にある桜を見て微笑んでいる亀寿が可愛らしくて堪らない。
今のこの瞬間をただ閉じ込めてしまいたくて、
——————永遠に、閉じ込めてしまおうと強く願って。
そして、貴女をただ縛り付ける約束を口にする。
気持ちが通じ合った今、ただ愛しすぎて…もう貴女を手放せないと思うから。
「これから毎年…来年も再来年も…共に老いるまで、こうして一緒に桜を見よう。
—————待ち侘びたこの春を…ずっと共に迎えよう…」
はらはらと、盛りの桜が舞い散る。
それを見ながら、少し考えて微笑んだ。
「…だが今は乱世。
私は武家の名を背負う限り…いつ死ぬかわからない」
———————島津を守りし龍となれ。
誰かが私の天命だというその言葉が私を縛り付ける。
島津を守る為にもしも貴女を残して私が死ぬ日が来たとしたなら。
…私は貴女を解放してやれるだろうか。
そう考えながらゆっくりと開いたこの手から、桜の花弁が風に誘われて飛んでいく。
それを見送りながら、思ってしまった。
嫌だと。
手放したくなんてない、と。
——————————例え、死んだとしても。
だから、こんな卑怯な約束で縛り付けてしまうこと…どうか許してほしい。
「…例えこの命尽きようとも私は永劫亀寿だけを想っている。
だから何度死に別れてもまたそなたと
——————今日のこの日を迎えたい…」
—————————落花流水。
散りゆく花は水に浮かんで流れたいと願い、流れゆく水はその花を浮かべて流れていきたいと願っている。
つまり互いに想い合っているということ。
転じて、"相思相愛"という意味を持ち。
そして去ってしまう春を表す季語。
どんなに惜しんでも、春はすぐに去ってしまう。
だから、桜に包まれ夫婦になった…狂おしいほどに愛おしい今日のこの日を、何度でも共に。
そしてこの約束を、生まれ変わっても何度でも交わそう。
終わりのない、螺旋のように。
桜の盛りの中で囁いたのは、そんな切なくも甘い…永劫の約束。
「…そなたが…この約束を交わしてくれるなら…この修羅の道も怖くはない…」
どうか、聞き入れてほしい。
貴女が約束を交わしてくれるなら、もう何も恐れずに島津の為にこの天命と宿命を全うしよう。
この乱世。
生き抜くは、修羅の道。
島津が滅ぶその時は、私は喜んでこの命を差し出そう。
滅ばずとも…島津を守るために、家臣を守るためになら尚の事。
それが、島津宗家の当主としての…宿命。
その宿命を背負う私が口にしたのは。
いつ命を失うかわからないこの戦乱の世において
愛しい妻を手放したくないが故にただ束縛するだけの…
何よりも卑怯でそれでいて、ただ愛おしい…
私達二人だけの…
———————桜に誓う落下流水の夫婦の約束。
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