第55話

「貴女と夫婦めおとになれると思うと…跡継ぎのこの重責でさえ幸せだと思ってしまった。本当に私は愚かです。女子おなごに心奪われると男はここまで愚かなものに成り下るのかと。自分でも驚いた…」











本当に、私は単純で愚かな男だと思って、己を嘲る。







すると姫がぽつりと呟いた。









「…それならば私も…愚かな女でございます」










何を言うか、と不思議に思うと。






姫は零れる涙を隠すこともせず笑う。



















「そんな貴方様の妻になれたこと…




———————心から幸せに思うのですから…」 


















その言葉が心に染み渡ると同時に、この心に色が宿っていく。



 







それは…春のように優しい色。






 

 

その色に…この心は囚われる。









いとも簡単に。















「亀寿殿…」





 







貴女は…私の春の姫。








そう確信して、壊れ物のように愛しいその名を呼ぶ。









この私に春を教えてくれた…







———————————愛しい貴女の名を。













すると、少し恥ずかしそうに…だけど嬉しそうに笑ってくれた。













「…亀寿、とお呼びください。





…私はもう…








—————————貴方様の妻にございます」
















思わぬ言葉に、そうだったなと思って少し照れくさくなる。








そんな可愛らしいことを言ってくれる唇を奪ってしまいたくなって、自分にこんな感情があったことに素直に驚いて自覚する。







私も…男、だなと。




  




だけど早まるな、と己をどうにか牽制する。








…大切にしなければ。














「…亀寿」









その名を初めて呼び捨てて、穢れた優越感に浸ってしまいそうになる。











貴女の名を呼び捨てられる男は…






——————————この私だけだと。












口づけてしまいたいのをどうにか我慢して、こつん、と額を合わせた。



















「…ずっと…会いたくてたまらなかった…。



この春を…この日をどれだけ待ち侘びていたことか…」










堺で別れたあの日から、どれだけ待ち侘びていたことか。






今日のこの日を。





互いにしか聞こえない程の小さな声で、囁く。






溢れんばかりのこの思いの丈を。

 









「幾久しく…よろしく頼む」













貴女と夫婦になれること。










——————————ただ幸せだと思った。






何よりも。













生まれて初めてのそんな感情に、戸惑う。





泣きそうになるのをどうにか堪えて微笑んだ。



 








「…私も……ずっとお会いしとうございました…」










ただ、誰かの一言でこんなにも幸せになるだなんて…知らなかった。









「…幾久しく…お傍に置いてくださいませ…」









 

その言葉に、もう愛おしくて堪らなくなる。










頷いて、そのまま亀寿をこの腕の中に引き寄せる。








想いが通じ合ったことが嬉しくて、そしてやはりまだ少し気恥ずかしくて。







抱き締めたまま、戯けるように笑った。











「…ずっと…こうしたかった…」












抱き締めている。






好いた女を。



 




そう理解した瞬間高鳴る鼓動の中で、この胸にそっと頬を寄せている亀寿が愛おしくて堪らない。







 


互いの体温がただ…温かくて、優しくて。










心地よくて…瞳を伏せた。

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