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 その声を無視して、私は淡々と処置をする。


「おいっ! 雫! わ、ざ、と痛くしてないか?」


 医師の前でも、図々しく私を呼び捨てにする彼。医師が呆れ顔で私を見た。私はブルブルと首を振り、目で『特別な関係ではありません』と訴える。


 恥ずかしい思いをしたが、あえて彼の言葉はスルーして聞こえない振りをした。


 絶対に許さないからね。

 あとで文句を言ってやる。


 医師の手前、平常心を装いながらも怒りが湧き起こる。その怒りは沸点に達し、グツグツとはらわたが煮えくりかえる。


「雫、雫! 包帯キツすぎだろ。おいっ! 聞いてるのか? こらっ!」


「大丈夫ですよ。ちゃんと調整してますから。傷に支障はありません」


 にっこり笑って、患部に支障がない程度にギュッて包帯を絞める。職権濫用だ。


 回診のあと、医師から「一部の患者さんと親しくするのはどうかと思いますよ」と、厳重注意を受けた。これも全部、あいつの無神経な呼び方のせいだからね。


 一日中怒りはおさまることはなかったが、この日は入退院の患者さんがいて、慌ただしく仕事をしていたため、彼に文句を言う暇もなかった。


 それなのに、なんでこんなにもあいつの事ばかり考えているのか、自分でも納得がいかなかった。


 ◇


 当病院のシフトは基本的に二交替制で今日は日勤だったが、夜勤の人が風邪でダウンして急遽休むことになっため、午後四時でいったん仕事を終え、零時から深夜勤に入ることになった。


 突然シフトが変更になることは、当院では多々あること。いったん帰宅して、睡眠を取り、再び出勤する。


 私はどちらかといえば臆病者だ。

 深夜の巡回はもう慣れたとはいえ、午前二時、三時を過ぎると、夜の静寂に言い知れぬ寂しさを感じ胸が押しつぶされそうになる。


 薄暗い廊下、病院特有の雰囲気。

 静まり返った病棟。


 ――あの飛行機事故の無惨な光景が……

 脳裏を過ぎる。


 病室を巡回していると、廊下の隅で話し声が聞こえた。誰かが携帯電話で喋っているようだ。


 みんな就寝しているのに、少し耳障りな話し声。


 注意しようかな……。

 深夜だし、他の患者さんに迷惑だよね。


 人影に近づき、ピタリと足が止まった。

 電話の主は中居保だった。


 彼は私に気付き携帯電話で話しながら、こちらに視線を向けた。


 やばい……。


 野獣と目が合ってしまった。

 見なかったことにしよう。


「じゃあな。また電話するよ」


 彼は電話を切ると、携帯電話をパジャマの胸ポケットに収め、私を見据えた。


 私はそしらぬ顔で、彼の横を通り過ぎる。

 瞬時に、ムンズと手首を掴まれた。


 獲物を捕らえた獣みたいに、彼は不敵な笑みを浮かべた。


「えっ……な、何ですか」


「それはこっちのセリフだよ。何か言いたそうに俺を見てただろ」

  

「電話をかけるなら、談話室でして下さい。他の……患者さんに……迷……」


 言葉が終わらない内に、いきなり抱き竦められ唇を奪われた。


 予想だにしない……キス……。


 突然のことに、私はフリーズして動けない。彼の左手はガッチリと私の体を捕らえている。


 数秒後、我に返った私は慌てて彼から離れた。


「な、何をするの」


「だって、月夜に照らされた雫が可愛いかったから」


 彼は窓の外を見上げた。

 夜空にぽっかりと浮かぶ月。

 黄色い月が神秘的な光を放っていた。


「……っ、そんな理由で……」


「それだけじゃダメ?」


「……ふざけないで下さい」


 私は彼から離れ、くるりと背を向け歩き出す。背中に彼の視線を感じながら、羞恥心から火が点いたように体が火照った。


 ありえない……。

 ありえない…………。

 ありえない…………………。


 心の中で何度も否定しながらも、鼓動は乱れドキドキと音を速める。


 ナースステーションに戻り上がった息を整え、冷静になればなるほどに自己嫌悪に陥り、頭を抱えて蹲る。


 巡回から戻った看護師に声をかけられ、ビクンと体が跳ねた。


「朝野さん、どうかしました? 何か大きな声がしましたけど?」


「い、いえ、何でもないの。廊下で電話していた患者さんに注意をしただけよ」


 私としたことが……。

 あんな男の毒牙にかかるなんて、情けない……。


 どうしてこんなにも冷静さを欠き、アタフタしてしまうのだろう。


 あんな奴、一発ひっぱたけばよかったのに。どうして、叩けないのよ。


 あの澄んだ目に見つめられたら、次の言葉が出てこない。


 彼を異性として意識しているから?


 ま、まさか……!?


 あいつには怜子って恋人がいるのよ。

 看護師をからかって遊んでいるに過ぎない。


 セクハラで訴えることもできる。

 でも……。


 ――『だって、月夜に照らされた雫が可愛いかったから』


 鼓膜に残る彼の言葉が、その怒りにブレーキをかけた。

 

 今日は夜勤あけで、明日は休暇を取っている。だから、彼と顔を合わせるのもあと少しの辛抱だ。


 テンパっている自分に、何度もそう言い聞かせた。

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