月の夜 1

【雫side】


 静かな夜の街に、救急車のサイレンが鳴り響く。そのサイレンは都内にある橘総合病院の前で、静かに鳴りやんだ。


「ストレッチャーを早く回して!」


 婦長に指示され、私は急いでストレッチャーの準備をする。救急車のドアが開き、看護師が一斉に患者に近付く。


 患者は右腕火傷の若い男性。彼に近付くと少し焦げ臭いにおいがツンと鼻をついた。彼はずぶ濡れで、高級ブランドの黒いジャンパーを着ていたが、袖は焼け焦げ赤くただれた皮膚が見えた。


「いてぇ……」


 くぐもるような声で呻きながら、彼は顔をしかめた。


「大丈夫ですか?」


 声を掛けると、彼が私の顔をチラッと見て少し驚いたように目を見開いた。


「……いいねぇ」


 彼は小さな声で呟くと、口角を引き上げニヤリと笑った。


 な、なんなのよ。

 気持ち悪いな。


 それが、私の抱いた彼の第一印象。


「朝野さん何をしてるの。火災による熱傷よ、早く処置室へ!」


 婦長に叱咤され、私はストレッチャーを押す。その間も『いてぇ……』と唸りながら、彼は私の方を何度もチラチラと見上げた。


 嫌な感じ……。

 たまに、いるのよ。

 こんな患者……。


 看護師を何だと思ってるの。


 私はかなり不快だった。


 ◇


 朝野雫あさのしずく二十四歳、職業は看護師。現在は橘総合病院に勤務している。今日は夜勤、私が夜勤の日は不思議と急患が入る。


 なんでだろう……。

 ついてない。


 思わず溜息が漏れた。


 救急処置室へ入る。

 火災現場での熱傷。

 気道熱傷も疑われていたが、どうやらその心配はなさそうだ。


 患部を確かめるために、衣服をまずハサミで切断し脱がせないと。直ぐさまハサミを手に取ると、彼が怪訝そうに私を見上げた。


「えっ? まさかハサミで切るのか? これ高級ブランドなんだけど。価値わかってる?」


 だって、どうせ焼け焦げてるし。

 ブランドだろうが、もう使い物にはならないよ。


 私は彼の言葉を無視して、右袖にハサミをいれて洋服を脱がせた。


 患部は疼痛を伴い赤くなり水疱ができていた。皮膚が乾いて白くなったり、皮膚の弾力が失われることもなく、深達性Ⅱ度熱傷ではなく浅達性Ⅱ度熱傷と診断された。


 だが患部は広範囲にわたり腫れ上がり、赤くなり、強い痛みや水疱を伴っていたため、短期入院は必要となりそうだ。


 医師の指示で患部を消毒し、被覆材を貼っていく。


「いってぇー。看護師さん、もっと優しくしてよ」


 悲鳴を上げながら、彼が私をジッと睨みつけた。


 熱傷の治療をしてるんだから、痛みを伴うに決まってる。


 嫌な感じだな。

 治療をしている医師や看護師を加害者みたいに睨み付け、被害者みたいな顔で見ないでよ。


「なあ、わざわざ服を切らなくても良かっただろ。自分で脱げたし」


 熱傷で無理矢理洋服を脱げば、焼けただれた皮膚がズルリと剝けてしまう恐れもあった。


 不満そうな彼の言葉を無視し、私は右腕に包帯を巻く。


「無視かよ。看護師さん、可愛い顔して冷たいなあ」


 小馬鹿にしたような口調にカチンとした私は、無視を決め込む。


 酔っ払いじゃあるまいし。

 目も合わせたくないよ。


「右上腕の水泡が治まるまで、一週間ほど入院して下さい。朝野さん、中居さんを病棟へ案内して」


「はい」


 医師の処置を終え、私は彼を入院病棟へ案内することになった。


 深夜だったため他の患者さんは皆就寝し、病棟は静まり返っていた。廊下を移動中、彼が携帯電話で誰かに電話をかけていた。


 その声が静かな廊下に、耳障りなほどに響く。


「あっ、俺、俺、一週間くらい入院だってさ。明日でいいから、着替えと入院の保証人頼むわ」


 恋人かな?

 奥さんかな?


 なーんだ。

 ちゃんと世話をしてくれる相手がいるんだ。


 私は彼の会話を聞きながら、病室に案内する。空いているベッドは右側の窓際だ。


 四人部屋で、同室の患者はもう眠っていたため、病室の中に静かに入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る