第35話 6月 新山さんの元カレ(8)


「ただいま」

「おかえり。えっと、一位おめでとう」

「ありがとう。ねえ、そのタオル貸して?」


 そう言ったハル君がわたしの首にかかっていたタオルを掴む。


「待って、これあの、汗拭いちゃってるし」

「気にしないから」

「でも」

「髪濡れたままだと風邪ひくかも」


 またそういうことを言うハル君はやっぱりずるい。


「汗臭いかもよ」

「一ノ瀬さんの匂いならいいよ」


 そう言ったハル君はわたしの手からタオルを受け取ると、濡れた髪を拭き始める。もしかして、さっきわたしが“香水の匂い”の話をしたから?それでシャワーも……?聞いていいのかわからずにただ黙ってその姿を見ていた。


「唯とはなんでもないよ」

「え?」


 突然その話題を口にしたハル君に驚いて顔を見ようとするけれど、タオルのせいで見えなかった。心臓の音が不思議と大きく聞こえる。


「寄り戻す気もない。ただ相談があるって言うから、それで最近よく話すだけ」

「でも新山さんは」

「唯の気持ちがどうであっても、戻ることはないから」

「どうして?」


 せっかくお似合いなのに。ハル君があの子と付き合っていたら、わたしはこんな気持ちにならなくて、ちゃんと友達を続けられるのに。


「好きな子がいる」


 ハル君が紡いだその言葉が、わたしの身体を深く深く刺した。

 息さえも忘れそうなくらい、言葉が出てこない。


「その子を好きになったから唯と別れた」

「そう、なんだ」


 どうにか言葉を口にしたわたしを、誰かが呼んだ気がした。


「澤村さん呼んでるね」

「えっと……綱引き、行かないと」

「うん。応援してる」

「ありがとう」


 曖昧に笑うわたしを、その瞳が映す。


「一ノ瀬さんは俺がいない昼休みは寂しい?」

「……友達だから、ハル君じゃなくても急にいなくなったら寂しいよ」


 そうだ。今ならまだ戻れる。

 だって気づいたところで意味がないから。それなら今のままでいい。こうやって優しくしてもらえるだけで。友達として近くに居られるだけで。


 ハル君には新山さん以上に好きな人がいる。

 きっとその子に告白したら、二人は付き合うことになるだろう。だってハル君は人気者でカッコよくて優しくて、彼氏だったらいいなって思ってしまうような男の子だから。いつか誰かの彼氏になってしまう人。


「わたし、ハル君と友達になれて良かったって思ってる」

「一ノ瀬さん?」

「これも友情の証だね」


 手首に巻く揃いのハチマキを見せて笑うと、ハル君もまたいつもの笑顔を見せてくれる。


「じゃあ、わたし行くね」

「いってらっしゃい」


 ハル君は友達。

 ハル君は友達。


 まだ戻れると、その日から何度も自分に言い聞かせた。だけどわたしの中に芽生えた想いの種は消えることはなく、夏に向かい上がっていく気温と一緒に、誰にも言えあないまま育っていった。


 夏休みを向かえる頃には、もう自分でも抗えないくらいに好きになっていた。ハル君に恋をしてしまった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る