第26話 9月-③ ハル君と仮病(2)
「ごめん、泣かないで」
ハル君の手がわたしの髪に触れる。
その感触は髪の毛の一本一本から伝わって、全身にその熱がめぐる。
「一ノ瀬さんはさ、やっぱりズルいんだよ。そうやって言われたら俺何にも言えないんだけど」
「ごめんなさい……わたし、どうすればいいのか」
「謝らないで」
「でも……」
「……正直、一ノ瀬さんに苛々してる。だから、優しく出来ないときがある」
ハル君の言葉が重く重く圧し掛かる。
それってどういう意味?友達でいるのも嫌って意味?
拭おうとした涙は、私が触れるよりも先にハル君の指に吸い込まれた。
左の頬に触れる大きな手が、温かくて怖くなる。
「でもそれって俺の我儘だから、一ノ瀬さんが悪いわけじゃない」
「でも、私のせいって」
ゆっくりと視線を重ねると、彼はいつものように優しく微笑んでいた。
「そうだね、強いて言うなら一ノ瀬さんの鈍さって言うかバカさ加減のせいかも」
そう笑ったハル君からはさっきまでの冷たさは消えて、いつもみんなに見せる太陽みたいな優しい目に戻っていた。だから緊張が少しずつ解けていく。
「バカってひどい。わたし真剣なのに」
「そこが可愛いところでもあるから」
「嬉しくないよ。傷ついたんだから」
「傷ついたの?」
「当たり前だよ!ハル君から嫌われたと思って、今もここが痛いもん」
自分の制服の胸元をきゅっと握ったわたしを見て、ハル君は「そっか」と呟く。それはいつか聞いた、ひどく甘ったるい声。
頬に触れていた手がそっと髪を掬い、いつもわたしがするみたいに耳にかけてくれる。ハル君の伏せられた瞼の先で、綺麗な睫毛が揺れて、すっとわたしを見上げた。
「じゃあ、もっと傷ついて?」
耳を疑うような言葉なのに、あまりにも綺麗に笑うから、バカなわたしの心臓はまた飛び跳ねて溶かされていく。耳朶の熱はもう、ハル君の指先にも伝わっているだろう。
「やっぱりハル君はわからない」
自分が今どんな顔をしているのか確認するのも怖くて、その瞳から逃れるように顔を逸らす。そんな反応すら笑うのだから、きっと揶揄われたのだろう。
「一ノ瀬さん、覚えてる?」
「え?」
「前に、俺が一ノ瀬さんを好きになる確率の話」
それはわたしたちが仲良くなり始めた頃の話。
あの頃からずっと、わたしはハル君の前では泣いてばかりだ。
「覚えてるよ。ハル君と友達になった特別な日だもん」
でもどうして今そんな話なのかと不思議に思うわたしに、ハル君はまさかの問いを投げかけた。
「じゃあさ、一ノ瀬さんが俺を好きになる確率はどのくらい?」
「わたしが、ハル君を……」
「そう。一ノ瀬さんに好きになってもらえる確率」
「えっと、それは……」
「友達だから好きってのは禁止ね」
そういえばあの時、友達になったわたしはハル君を下の名前で呼ぶようになったけれど、ハル君は今でもずっと「一ノ瀬さん」と呼ぶ。
悠子や美紀を呼ぶように、女子のことは基本的に名字で呼ぶハル君。それがもしも彼の中での線引きなのであれば、きっとわたしも大勢の友達の中の一人でしかない。だからまさかこの場所で、自分の気持ちを伝えることなんて出来ない。
わたしはただ友達として近くに居られたら良いのだから。
「真冬に向日葵が咲くくらいの確率」
正直、なんでも良かった。
何に例えても、どう答えても、この気持ちさえ知られなければ。
「真冬に向日葵……」
「うん」
「……それって、確率が高いの?低いの?」
冷静な顔で冷静な疑問を口にするハル君に、わたしは自分が滑稽に思えて恥ずかしくなる。一方的に意識して、わたしだけが必死だ。
「とにかく!それぐらいおかしくてありえないってこと!」
「……そこまで言い切る?」
「言い切るよ。だって友達でしょう?」
「……やっぱムカつくな」
「え?なんで!?」
理不尽な彼の態度に慌てるわたしをよそに、ハル君はベッドから下りて、大きく伸びをする。どうやら本当に仮病だったらしい。
「そろそろ教室戻ろうか」
「え、待って」
「早くしないと昼休み終わるよ」
その手が、わたしの右手を掴んで引いた。
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