第23話 5月 誠人君の浮気相手(5)

「でも誠人君、悩んでるの。緑ちゃんと話をしたいけど避けられてるから困ってるの。優しいから。別れ話も、緑ちゃんを傷つけるからってずっと切り出せずにいるの。私、そんな誠人君のこと見ていて辛いの。緑ちゃんにはきっとこの気持ちわからないよね?お願いだからもう別れて……誠人君が可哀想」


 我慢していた。だけどぷつんと糸が切れる音がした。

 可哀想って何?じゃあ、わたしは?

 涙がじわじわと溢れて頬を伝い、カラオケの廊下に敷かれた臙脂色の絨毯に落ちる瞬間、わたしの身体はよく知った甘い花の香りに抱きしめられた。


「……美紀?」


 私を抱きしめる彼女の名を呼んだと同時に、乾いた音が響く。


「痛っ!何!?」


 目に映るのは、驚いて頬を押さえる橘さんと彼女の前に立つ悠子の背中。


「あんたさ、自分が悲劇のヒロインだとでも言いたいの!?私からしたら、緑とのことをちゃんと区切りつける前からそういうことしてるあんたらの方が、よっっっぽど最低で最悪!人間のクズ!」


 普段の悠子からは想像も出来ないような姿に、わたしの涙は止まってしまった。でも今度は、違う涙が零れてきた。抱きしめてくれる美紀の腕の強さと、わたしのために怒ってくれる悠子の言葉の強さに、涙が止まらなくなる。


「たしかに緑は変なことばかり気にして、なんて言うか、積極性に欠ける部分があるから誠人君が不安になるのもわかるよ?あんたがそんな二人を見て苛々するのも、私だって好きな人がいるからわかる!でも、でもそれが緑を裏切って傷つける理由にはならない!」


 いつの間にか、この騒ぎに気づいた人が廊下に数人出てきていて、そのほとんどがサッカー部の部員だった。今日は部活がないから、サッカー部もみんなで来ていたのか。もちろん彼らは、涙を流すマネージャーの姿に驚くわけで、そのうちの誰かが彼を呼びに行くのは必然だった。


「チカ!?」


 集まる部員たちの中から慌てた様子で現れた誠人君は、わたしを一瞥したあとで、涙を流す橘さんのもとに駆け寄ると、彼女の腕を優しく守るように引き寄せた。


 それが彼の答えで、わたしたちの結末だった。


「ごめん、悠子ちゃん。なんでチカ殴られてるの?」

「誠人君がそれを聞く?」


 誠人君の言葉に悠子の声が苛立ちを増す。


「責めるなら、チカじゃなくて俺にしてよ」

「先に緑を傷つけたのは、その女だから」

「でも悠子ちゃん関係ないよね?」


 誠人君は橘さんをそっと背に隠す。

 その姿には、彼女を大切に思う気持ちが表れている。

 だから、もう大丈夫だとわたしの心が言った。


「悠子ありがとう。でももういいから」


 私の言葉に振り返った悠子の目には薄っすらと涙が見える。

 いつも強くて優しい彼女が、わたしのために傷ついてくれた。


「私は緑を傷つける全てが許せない。緑が許しても私は許したくない!

だってそれくらい、緑は誠人君が好きだったの。今もきっと……」


 そう言って悠子は彼を見た。

 誠人君の視線が、ようやくわたしに戻ってきた。


「みどり」


 久しぶりに呼ばれる名前。

 彼がゆっくりとわたしの前に歩いてくる。

 これから私に何を話すのだろう。


「緑、二人で話をさせて?」


 誠人君の言葉に、美紀が心配そうに私から離れた。

 騒ぎを聞きつけたのであろう村上君が、悠子の肩をしっかりと抱きながら、サッカー部の人たちに部屋へ戻るように諭している。橘さんも、同じマネージャーの子に支えられて戻っていく。


「外出ようか」


 ぎこちない笑みを浮かべなら言った誠人君の手が、いつかのデートの時みたいにわたしへと伸ばされる。


 触れられたくない――そう思った瞬間、身体が後ろに引かれた。

 美紀とは違う香り。カラオケルームのソファに座りながら、何度か触れた肩の感触を思い出す。抱きしめられたわけじゃない。ただわたしの背中が、青山君の胸にぶつかった。


 ああ、今日もまた、恥ずかしい姿を見られてしまった。

 そう思いながら見上げた青山君の顔は、初めて見る冷たい表情をしていた。

 射貫くような鋭い視線を誠人君に向けたクラスメイトの唇が動くのを、わたしはただ見つめていた。


「一ノ瀬さんに、触らないで」


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