9月-① ハル君とわたし

第2話  9月-① ハル君とわたし

「みどりー!」


 9月1日。

 新学期の始まりの朝、ちょうど校門を抜けたタイミングで背後から飛んできた声に、わたしは歩みを止めて振り返る。


「ちいちゃん!おはよー」

「おはよう!髪切ったんだね!」

「そうなの!変じゃない?」

「めっちゃ可愛いよ〜」


 そう言って、少し日焼けしたクラスメイトがわたしの短くなった毛先に触れる。

伸ばしていた髪を思い切ってボブにしたのは一週間前のこと。


 ハル君、気づくかな……。


 涼しくなった首筋にくすぐったさを感じながら、そんなことを考える。


 一ノ瀬緑イチノセミドリ

 城西高校2年3組。

 クラスメイトのハル君に片想い真っ只中の、普通の女子高生。


「みどりは夏休みどっか行った?」

「お父さんが福岡にいるから、お母さんと弟と遊びに行ったくらいかな」

「いいなー九州!美味しいものいっぱいありそう!」

「でもちいちゃんも北海道行ってたよね!インストで見たよ!」

「そうそう!家族でね!先週は海行ってこの日焼け!」


 華奢な腕にできた夏の境界線を見せながらケラケラ笑うクラスメイトに釣られてわたしも笑う。

 教室までの廊下の途中でも何人かに声をかけられて、その度に立ち止まり会話を交わし、夏休みが終わったことを実感する。友達は特別多くもないけれど、少なくもない。人見知りをしないところがわたしの長所だと、兄たちに言われたことがある。


 階段を上がり、廊下の先に見えた「2−3」の文字に、わたしはそっと深呼吸をした。1ヶ月ぶりに開ける教室の扉が重たく感じるのは、わたしの心に渦巻く複雑な緊張のせいだろう。窓から流れ込む生温い風と一緒に、騒がしいクラスメイトの声が爆ぜるようにわたしを包む。


 この教室の中心は窓側の最前列。

 数人の男女が輪を作るその場所。


 みんながその横を通り、「おはよう」と声をかけてそれぞれの場所に行く。だから一緒に教室に入ったちいちゃんの足も迷うことなくそこへ向かい、わたしもそれに続く。


 どんな風に声をかけようか。

 そんなことをグルグル考えていた時、その輪の中から一人の男子生徒が身を乗り出して叫んだ。


「え!?緑ちゃん髪切ってる!?」


 村上君の一声で教室中の視線がわたしへと向けられ、ちいちゃんはその様子に「声でかっ」と笑いながら自分のグループへと合流していく。だからわたしも急いで村上君たちの作る輪へと駆け寄った。


「本当だーいつ切ったの?」

「先週だよ」

「結構バッサリいったね!でも可愛い!」

「うんうん!一ノ瀬まじ可愛い!」

「ありがとう。変じゃなくて良かった」


 「おはよう」を言うタイミングを逃したまま、みんなからの言葉に答える。この教室の中心に自分が属していることは、今でもまだ少し慣れない。それでも大好きなみんなに久しぶりに会えたことにホッとしながら、わたしは視線を密かに落とした。華やぐ輪の中でいつも静かに座っている彼に、高鳴る緊張が悟られないように。


「おはよう、一ノ瀬さん」


 きっとその音に色をつけたら青だろう。

 春と夏のあいだの、突き抜けるような青。


「ハル君、おはよう」


 上擦りそうな声を、潰れそうな心臓を、どうにか押し込めてその名前を呼ぶ。

 贅沢なことに、わたしはこの教室でハル君と一緒のグループに属している。正確には、悠子と美紀とわたしの女子3人グループと、村上君とよっしー、里中君、それから玲くんとハル君の男子5人グループに分かれているのだけれど、悠子と村上くんが付き合っていることで、気づいたらひとつのグループになっているのだ。


「短いのも似合うね」


 わたしを見上げてそう言ったハル君に、「ありがとう」と答える。


「ありがちなボブなんだけどね。自分ではすごく変な感じ」


 褒められた嬉しさに言葉は纏まらなくて、それを誤魔化すように右手で髪を耳に掬い掛けるけれど、視線はきっと泳いだままだ。


「俺は好きだよ」

「え?」

「それくらいのボブ。可愛くて好きだな」


 ひとつの躊躇いもなく、そんな言葉を吐くハル君に、わたしは思わず視線を止めてしまう。綺麗に上げられた口角と、優しく細められた目尻に、心臓が危険信号を鳴らしている。


「ハルが新学期早々緑ちゃん口説いてるよ」

「モテる男はやらしいね〜」


 村上君とよっしーの揶揄いに、ハル君はいつも通り笑う。

 だってそうだよ。ハル君が「可愛い」って言ったのは髪型のことなのだから。別に、わたしのことじゃない。


 ハル君とわたしはクラスメイトで、友達だ。

 この気持ちは届かない。


 熱くなった耳たぶを隠したくて、さっき耳に掛けた髪をそっと戻す。


 ハル君は優しい。

 それはわたしにだけじゃなくて、平等な優しさだ。

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