「……ちゃん……てんりちゃん……」

「ん……」

 聞き慣れた声が鼓膜を叩き、その人物が優しく肩を揺する。目覚めて顔を上げると、店長が酷く心配そうな表情で私を見つめている。

「……」

 何事か。

 その表情を見て、一体何が起こったのかと状況を飲み込めず、怪訝な表情で店長の顔をジッと凝視する私に向かって「退勤時間だよ、天理ちゃん」と穏やかな声で伝えた。

「あっ!」

「いやあ……あまりにも気持ちよさげに眠っているから、そのまま放っておくべきか起こすべきか否かで迷ったくらいだよ」

 そう話したあと、アハハと豪快に笑う店長の懐の深さに感激する。明らかに仕事をサボっている人間に対してそのように伝えられる、その懐の深さに。

 それよりも、オフィスチェアにいつまでも座ってぼんやりとしている場合ではない。

 オフィスチェアから腰を上げ「ごめんなさい……」と謝罪する。それから、言葉を継ごうとするものの、適当な言葉が見つからず、話の接ぎ穂を失う。

 と、手をヒラヒラとさせて「いいのいいの」とフランクに『いいの』を繰り返す店長に目を皿にする。

「えっ!?……」

「とにかくお疲れさま、よく頑張ったね」

 そのタレ目が眼鏡越しに穏やかに細められる。その穏やかな瞳が店長の温かい人となりを表している。まあ、天然パーマとふくよかな体型の相乗効果でこう思うのかもしれない。

「あ、ありがとうございます……」

 店長にぺこりと頭を下げ、長袖の暑苦しい紺色の制服をサッサッと脱ぐ。ロッカーを開けてハンガーに制服を吊るし、これの扉を閉める。

 建て付けが悪く、開け閉めする度にガタガタと不快な音を立てる、赤錆びたこれをどうにかしてほしいと長らくのあいだ思っている、が、店長はこれがさほど気にならないようだ。

「それでは失礼いたします」

 バッグを肩に提げ、挨拶して事務室をあとにした。

 事務室を出てすぐ。バッグカウンターに並ぶ、色彩豊かなさまざまな銘柄の煙草に目を奪われ、レジカウンターの前で足を止める。

 普段、気にも留めないそれらがなぜか目を引いた。

 ――ああ、そうか。

『パーラメントはさ、フィルターを噛むと風味が変わる、魔法のような煙草なんだよ』

『へえ……』

 そのように説明されても煙草を、パーラメントを吸ったことがないので、七緒の話を理解できなかった。

『分からない、そう言いたげだね』

 ニヤリ――口角を上げ、パーラメントのボックスからパーラメントを抜き取り、それを銜えたあと、ライターでそれに火をつけた。それの煙を吸い込みそれを肺に取り入れたのち、それを吐き出す。

『フィルターを軽く噛んだ後、煙を吸い込んでそれを肺に取り込む。でも、天理ちゃんの場合、煙を口に含んで、その風味を味わった後に口から煙を吐き出す口腔喫煙の方がいいよ。天理ちゃんも吸って』

 言われるがままに受け取ったこれを銜む。と、パーラメントの濃厚な煙が肺にまたたく間に流れ込み、激しく咳き込んでしまう。

 おかげでこれを危うく落とすところだった。これが原因でもしも火事になり、私が失火罪で逮捕されたらどうしてくれる、七緒。

『ごめんごめん』

『七緒っ!』

 涙目になる私に同情するどころか、私のこの情けないありさまを見て愉快に笑う、無慈悲でサディスティックなこの男をキッと睨む。

 と、パーラメントをすっと取り上げ、これの灰を灰皿にトン、と落としたあと、哀愁を湛えた微笑を浮かべ『煙草、これは大人の特権だよ。天理ちゃんが傍にいるのにこの大人の特権に依存する、こんなオレは脆くて弱い人間なんだよ』と洩らした。

 ――あの酷く弱々しい声に滲む、七緒の心に巣食う闇にあの日、寄り添うことができなかった。

 ――パーラメント。

 あのブルーとホワイトのパッケージを見ると、あの香りを嗅ぐと、苦々しい記憶と七緒の哀しい声が克明に甦る。あれを嫌いになりたいのに、嫌いになろうとしても嫌いになれない。

 なぜなら“佐倉井七緒”だから。

 レジに行き「あのー」とアルバイトの子に声をかける。

「は〜い……って赤染さん! 今日もお疲れさまです! どうかしました?」

 早朝から輝かしい雰囲気を放つ、アイドルのごとくキラキラとした彼女――陰気臭い私とは住む世界が違う。

 ああ、ダメだ、こんなことを考えてしまうだなんて――。

「……赤染さん?」

「あっ、ああ……えっと、……パーラメントのナイトブルーをお願いします。確か……9mgだったと思う……」

「ああ! これですね!」

 にっこり、アイドル顔負けの笑みを向け、指定した銘柄を即座に指差す。そして、什器からそれを抜き取り、抜き取ったそれをレジ台に置いた。

「私、喫煙者ですから! 煙草のことなら任せてくださいね!」

「あ、ありがとう」

 と、小首を傾げ「あれっ? 赤染さんって喫煙者でしたっけ?」と疑問を呈する。

「ううん、何となく吸いたくなって……」

「なるほど〜……赤染さんにもそういう日ってあるんですね〜……。あっ! パーラメントといえば、喫煙者のあいだでは有名なんですよ! いま、凄く騒がれている俳優の大雅冬馬が愛飲している銘柄って話!」

「あっ……そっ、そうなんだね……」

 表情が強ばるのを、感じる。

「そうなんです! って、ごめんなさい、ながながと。引き止めちゃいましたね」

 苦笑いを浮かべ、引き止めたことを謝った。

「だ、大丈夫だよ……」

“大丈夫”

 こう言いながらも言葉に詰まり、顔が引き攣っている情けない私――自分はなぜこうも不器用なのか。

 ジッ、まるで品評するかのような目を私に向ける彼女と向かい合うことがツラい……嗚呼……今すぐにでもこの場から消えてしまいたい……。

 が、突如桜の蕾がパッと花開いたようなチャーミングな笑みを浮かべ「それなら安心しました!」と明るいトーンで口にした。

「う、うん」

 その才に取り込まれ、ぽかんとする間抜けな私。先ほどとは打って変わり、にこにことしている彼女の七変化は接客業にはもってこいのスキルである。

「お会計ですね!……って、ライターは大丈夫ですか?」

「あっ……ライターもお願いします」

 以後、年齢確認ボタンをタッチし、それらの代金を支払い会計を済ませた。退店の間際、「ありがとうございました〜!」と、私を見送るその声は、アイドルのように快活で、ハキハキとしていた。

 店を出るなり、灰皿が設置された場所に向かう。そこにやってきて早々、購入したばかりのパーラメントのボックスを開封し、中からこれを抜き取る。

 パーラメントを銜え、ライターでこれに火をつけようとするものの――やらかした。このライター、ベターなライターではなく、フリント式ライターと呼ばれる、回転式の厄介なライターだ。

 が、購入した以上は仕方がない。厄介なライターだが、慣れたら使いこなせるようになるだろう。

 銜えた煙草を口許から離し、これをボックスに収納する。

 何とはなしに足元を見る。

 アスファルトを雪泥のごとく彩る煙草の灰。雪泥のようなこれを眺めているうちに「雪と墨」ということわざを思い出す。

 物事の正反対、また、2つの物事の相違が甚だしいこと――このことわざが七緒と私を意味しているかのようで……酷く苦しい。

 今、何を見ても、何もしても七緒について考え、さらにはその何かを彼と結びつけてしまう、感性が研ぎ澄まされた私。

 ダメだな、こりゃあ、とこんな自分に呆れ返る。

 七緒がプレゼントしてくれたクロコダイルのポーチをバッグの中から取り出し、パーラメントのボックスとライターをこれに収納する矢先、ハッ、として手の動きが止まる。

 確か……七緒が愛用していたライターはフリント式ライターだった。このことを思い出した瞬間、なんとも言えない気持ちに、否、気鬱になる。

 しかも、これ、七緒が愛用していたものと全く同じフリント式ライター。カラーまで同じ。今日という日は厄日なのか。本当、一体どうなっているのか。

 抑えきれない吐息を盛大に洩らし、これらをポーチに収納する。これをバッグに突っ込んだ時、バッグがいやに重く感じられた。

 必要最低限の荷物しか入れていないのに、なぜ。

 ……そして、ふと思った。あの築年数が数十年のボロアパートに帰宅したくないと。雨風に曝されて外観が酷く黒ずんだ、家賃が3万円のあのボロアパートに。

 優蘭荘ゆうらんそうという名前に似合わず、ボロボロに朽ちた、昭和を彷彿とさせるボロアパート。これが私の自宅だ。

 七緒と別れたのち、優蘭荘に引っ越し、一人暮らしを始めた。慣れない一人暮らし、けれども“ひとり”には慣れている。なので、一人暮らしに慣れるまでに時間はかからなかった。

「ひとり」が「ひとつ」になる幸福、これを教えてくれたのは七緒だった。

 そうして現在、彼を失った私は「ひとつ」から「ひとり」になった。

「別にいい、慣れているから」とウソをつく。

 淋しいくせに、本当は。

“ひとり”を自覚するからあそこに、自宅に帰りたくないのかもしれない――。最寄り駅のマクドに行き、そこで朝食を食べてからドラッグストアに立ち寄り、自宅に帰るとしよう。

 頭の中でスケジュールを組み立て、勤務先を離れる。

 そして、最寄り駅に向かった。

 足早に歩き、最寄り駅にやってきた。再開発が進む、寂れたここを歩きながら、いろんな人とすれ違う。

 その顔に疲労を滲ませて歩く、よれよれのスーツを着たサラリーマンや、中身がギッシリと詰まったレジ袋を両手に提げて歩く、主婦と思しき俯き加減の女性。

 バス停をチラッと見ると、近隣の名門校に通う女子高生が彼氏と思しき男子高生と歓談している。うら淋しいムードとは対照的に空気がそこだけとても華やかだ。

 子供は白色を知っている、けれども黒色を知らない。大人は黒色を知っている、けれども白色を知らない――のではなく、これを忘れてしまった。

 大人になることは、天使から悪魔に豹変することだ。

 周囲の大人を通して悪魔に豹変した自分を見ている、そんな複雑な心境になる。

 黒色を知り、白色を忘れてしまったのは私も同じだから……。

 バッグを強く強く握りしめる。気持ちを切り替え、マクドを目指し歩を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る