佐倉井七緒

 陳列業務を終え、照明に照らされた陳列棚を見る。陳列棚に縦一列にズラッと並んだおにぎり、お弁当箱やサンドイッチなど――我ながら今日はこれらを綺麗に陳列できた。これらを綺麗に陳列できた自分に拍手喝采を送りたい。

「さて……」

 これを終え、清掃業務も終えて手持ち無沙汰になる。何もすることがないので事務室に戻ることにした。

 私が勤務するコンビニを漢字1文字で表すと、暇。

 ただでさえ客足が少ないため、夜勤の時間帯は客が誰一人として来店しない。が、近隣の中学校に通う不良グループが深夜、ここの駐車場でときどき屯している。

 事務室に戻り、座り心地の悪いオフィスチェアにどっかと腰を下ろす。そして、これに置かれたデスクトップパソコンに表示された時刻に目を遣る。

 時刻は午前1時を過ぎたばかりのところだ。

 デスクトップパソコンに映る、防犯カメラの映像――さまざまな飲料が所狭しと置かれたウォークイン、ゴミ一つない駐車場や、整理整頓されたバックヤードなどがこれに鮮明に映し出されている。

 防犯カメラの映像をぼんやりと眺めながら店内放送に耳を傾ける。最近人気のとあるアイドルグループが新曲を発売したことを宣伝したり、とある証券会社とCM契約を結んだ女優がその証券会社で証券口座を開設することを促したりなど、店内放送の内容は昨日と変わらない。

 昨日と、いつもと何ら変わらない。

 3時まで、新聞配達員の司城さんがここにやってくるまでにかなりの時間がある。

 付近に置いたバッグの中からネックピローを取り出し、これを首に装着したのち、オフィスデスクに突っ伏す。

 子猫が親猫と戯れるイラストがデザインされた卓上カレンダー、ブルーのテープカッターやハサミなどがあちこちに置かれ、とっちらかったオフィフデスク。

 ひょっとすると、店長は整理整頓が苦手なのかもしれない。

 ――オフィスデスクに突っ伏し、目を閉じる。

 夜勤、これは隙間時間に睡眠時間を確保することとが重要だ。ただ、このコンビニは万年閑古鳥が鳴いている店舗なので、いつでも好きな時に眠れる。

 今日もどうせ暇。

 店内放送がさまざまな宣伝から謎の流行歌に切り替わったタイミング、抗えない眠気に襲われ、眠りに落ちた。

「ん……」

 どれほど眠ったのだろうか。目を擦り、デスクトップパソコンに表示された時刻をチェックする。

 時刻は午前3時を回ったばかりのところだ。司城しじょうさんがそろそろやってくる頃だろう。

 と、その時、バイクの音がかすかに聞こえた。

 司城さんがやってきたと即座に判断して、オフィスチェアからガタッと立ち上がり、ネックピローを装着したまま小走りで出入口付近に向かう。

 そこにやってくると、各社の朝刊を抱えた司城さんがレジカウンターの前に立っている。

「朝刊でーす」

 間延びした、締まりがない声でそう告げ、新聞をレジカウンターにドサッと置いたあと「ああ、赤染あかぞめさん」と私に面を向けるなり「いやあ……相変わらずですね〜……」とネックピローを装着した、見るからにやる気のない私を目にして、苦笑いでそうコメントする。

『司城さんのほうこそ。本当、お互いさまですね〜』

 こんな性悪極まりない発言が口からつい飛び出そうになる。けども、場の空気を険悪にし、さらには関係を破壊しかねない悪質なこの台詞を噛み殺し、苦笑うことでこの場をやり過ごす。

「まあ、暇ですから」

「言われてみれば、確かにね」

 私の言葉にうんうんと頷く、そんな司城さんだ。

「あっ、赤染さん」

「えっ?」

「聞きましたか? 大雅冬馬が逮捕された例の事件」

 大雅冬馬が――逮捕された。

 佐倉井七緒が――逮捕された。

 一瞬間、思考がフリーズする。

「そっ……そうなんですね……」

「ええ。新聞、世間やニュースなどはこの話題でしばらく持ち切りでしょうね。なにしろ今をときめく超人気俳優が覚醒剤取締法違反と殺人容疑で逮捕されたわけですから」

「た、大雅冬馬にそんなイメージは全く……」

 佐倉井七緒の――七緒の素顔を知っている、が、ウソをつき、こうコメントする。

「いやいや、最近の彼、様子が明らかにおかしかったので、僕自身、彼は遅かれ早かれこのような末路を辿ると思っていたんですよ」

 まるで後出しジャンケンのようなそれにムッとしたものの、平静を装い「そうですか……」と応じる。

「ええ……。生きていると、何があるか本当に分かりませんね」

 そう話しながらもどこか他人事、そんな司城さんと話すことがとにかく苦痛で苦痛でたまらない。

 ――ふと気づく、喉がカラカラに乾いていることに。このままでは心身ともに干からび、煮干しになってしまう。

 司城さんと別れたらミネラルウォーターを購入し、それを飲んで喉の渇きを癒やそう。

「ああっ!!」

「えっ!?」

 矢庭に大声を発した司城さんにビクリとし、肩が跳ね上がる。

「どっ、どうかなさいましたか?……」

 と、頭を掻き、困ったように笑い「いやあ……さすがに長居しすぎたなあって……」。

 長居かい、とツッコミそうになったものの、司城さんにとって長居はどうやら命取りらしい。

 長居が命取りになる、新聞配達員という職業は大変だなあと思った。

「赤染さんと話しているとね、ついつい長居しちゃうんですよ」

 それは――私を褒めているのか、もしくは、仕事に対するやる気が皆無の私と関わることが面白く、つい長居してしまうと暗に伝えているのか。

 性格がねじけている、これが原因でその言葉を素直に受け取れない。

 思う、致命的人種だと。

「あの、赤染さん」

「……はい」

「さっきの言葉ですけど……赤染さんとの会話が純粋に楽しくて、つい長居してしまうという意味ですからね」

「……はい」

 そして、掛け時計をチラリと見、「さて、仕事に戻りますか……」と憂鬱げに呟き、そそくさと身支度を整える。

「……あの、司城さん」

「はい?」

 司城さんを引き止めてしまったとの罪悪感に苛まれながらも「いつも、お疲れさまです……」と労る。

「赤染さんの方こそ」

 にこりと笑い、「それでは」と会釈して、駆け足で店を出た。

 ……行ってしまった。

 このことに寂しさを感じる。だが、寂しさを感じ、この寂しさに浸っている場合ではない。

 事務室に戻り、バッグから二つ折り財布を取り出す。そして、これを携えてウォークインまで小走り、とにかく小走りする。

 喉が、喉が渇いて仕方ない。

 そこにやってきてすぐ上段、中段、下段にざっと目を通し、ミネラルウォーターを探す。すれば、それは下段に陳列されていた。

 プライベートブランドのミネラルウォーターの2Lが安い。喉がかなり渇いているので、ひょっとすると500mlでは物足りないかもしれない。

 2Lのミネラルウォーターにしようと決め、それを手にして急ぎ足でレジカウンターに戻る。そこに戻り、レジスターに責任者番号を打ち込み責任者番号を登録したのち、バーコードリーダーでミネラルウォーターのバーコードをスキャンする。

 176円、レジスターに表示されたミネラルウォーターの金額、これに200と打ち込むと24円のお釣り金額が表示された。

 財布から200円を抜き取り、これをレジスターに入金後、中からお釣りの24円を抜き取り、これを財布の中に入れた。

 水が、水がようやく飲める。

 それからミネラルウォーターのキャップを捻り、ミネラルウォーターを一気に飲む。

 喉がよほど渇いていたのだろう、容器の中身はもう半分ほどしか残っていない。

 ――さて。

 紙面を見ろと言わんばかりに存在を主張する、カラフルな紙面のスポーツ新聞を一瞥し、溜息が洩れる。

 ミネラルウォーターをバックカウンターに置き、レジカウンターに置かれたスポーツ新聞と睨めっこする。

 納品業務をいっそサボってしまおうか……。納品業務をサボりたい、こう思うのは弱いから――紙面一面に掲載された、佐倉井七緒という男と向き合うことを恐れているからだ。

「七緒……」

 ぽつりと呟いた愛しき名は、やかましい店内放送によってかき消されてしまった。

 逃げてはならない、違う、逃げられない。

 決意を固め、レジカウンターに置かれたスポーツ新聞にゆっくりと手を伸ばし、それを手に取り紙面に目を通す。

 とある映画の完成披露試写会に登壇した際の七緒のクローズアップ写真が掲載され、その隣に赤色と黄色のゴシック体のフォントで“超人気俳優!! 衝撃の逮捕劇!! 超人気俳優の笑顔の裏に潜む心の闇!!”との見出しが踊る、七緒をお笑い種にするこのスポーツ新聞――。

 アーモンドアイを穏やかに細めて白い歯を覗かせる、まさに王子様と呼ぶに相応しい七緒。

 こんなに爽やかな雰囲気を漂わせる男が予想だにしない、世間を震撼させる事件を起こしたのだ。

 いつ誤ったのか、どこで誤ったのか、何を誤ったのか、誤ったのではなく、これは宿命なのか、これが宿命なのか。運命は変えられる、だけれども宿命は変わることがなく、変えることもできない。

 七緒の面を凝視する、と、徐々に歪み始めるこれに恐怖を感じ「ひっ!!」と素っ頓狂な声を上げてしまう。

 だが、紙面に写るのは狂気的なほど美しい微笑を湛える七緒。あの瞬間、ひょっとすると悪魔が私に憑依したのかもしれない。

 見出し、写真から本文に目を移す。

“俳優の大雅冬馬(本名・佐倉井七緒)容疑者(26)を覚醒剤取締法違反と殺人容疑で逮捕した。”

「ああ……」

『あっ、赤染さん』

『えっ?』

『聞きましたか? 大雅冬馬が逮捕された例の事件』

 七緒の逮捕にまつわる一文、また、司城さんとの会話がフラッシュバックし、七緒が逮捕されたという現実が私の背中に重く重く、ズドンと伸し掛る。

 本文を読む。

“8日未明、警視庁は俳優の大雅冬馬(本名・佐倉井七緒)容疑者(26)を覚醒剤取締法違反と殺人容疑で逮捕した。大雅容疑者は自宅アパートで交際相手の女性を殺害。また、現場からは複数本の注射器と、1.5gの覚醒剤が入った袋が押収された。警視庁からの取調べに対して、大雅容疑者は黙秘しているという。”

 自宅アパート――七緒は私と別れて以後もあのアパートで、腐敗したあの一室で生活していたのだろう。想像に難くない。

 売れっ子俳優の仲間入りを果たしてからもタワマンや高級ブランドなどに全く興味を示さず、腐敗臭がする、壁紙がヤニで黄ばんだ、あの爛れた部屋を居心地がいいと言い、ネット通販で格安のアクセサリーや衣類などを買う。

 佐倉井七緒とはこのような男だった。

 世間やマスコミからちやほやされても驕らず気取らない、そんな七緒が大好きだった。

“謙虚”

 佐倉井七緒という男を表すこの2文字。

 そんな七緒の素顔を知らない世間やマスコミは彼のことを面白おかしく語り、上辺だけを見て『ヤク中の人殺し』という烙印を押す。

 ……耐えられない。

 スポーツ新聞をレジカウンターに叩きつけるように置き、バックカウンターに置いたミネラルウォーターにすぐさま手を伸ばす。

 喉が、カラカラだ。

 キャップを捻り、残り半分のミネラルウォーターを喉に流し込み、キャップを閉める。ペットボトルを握る手に力が入り、グシャリ、これが醜い音を立てた。

「暗黒」この2文字がぴったりな私の心境とは対極的な明るすぎる照明と、今の私には耳障りなほどポップな曲調の流行歌が苛立ちに拍車をかける。

 やるせなくて、どうしようもなくて――こうした負の思いをまるでゴミ箱にぶつけるみたいに中身が残ったペットボトルをそれに勢いよく投げ捨てる。

 ガタン、ゴミ袋が揺れ動く音がやけに大きく響いた。

「どうして……どうして……」

 宿命から逃れる術はなかったのか。

 しかし、もう遅い。

 憂鬱に支配され、みるみるうちに曇る心――だが、これを理由に納品業務を怠ることは許されない。

 ……仕方がない。

 新聞を手にし、納品業務に着手する。

 紙面に写る七緒の笑顔――スポットライトに照らされた眩い世界の裏側ではドラッグの海に溺れており、挙げ句の果てに交際相手の女性を殺した。

 殺した、殺した、殺した――コロシタコロシタコロシタ――。

 唇を噛む。が、どんなにイラついても無駄だ。このような事件を起こした七緒の現実は変わらず、変えられないのだから。

 どんなに足掻いても、どんなにどんなに足掻いても。

 納品業務をさっさと終わらせたい、この一心で新聞ラックに新聞を速やかに納品する。

 それから、無心で納品作業を進め、これをようやっと終わらせた。

 ――事務室に戻り、そこで休もう。

 腰を上げ、事務室に踵を返す。そこに入るなりオフィスチェアにどっかと坐る。

 ……気のせいだろうか。事務室の空気がどんよりと重苦しく、澱んでいるような気がして酷く居心地が悪い。

 年季が入り、所々に亀裂が入った灰色のくすんだ壁と埃臭い室内――ここにいると憂鬱が加速すると判断し、店外に出ることにした。

 オフィスチェアから勢いよく尻を上げ、事務室から退室して店を出る。退店し、夜が明け切らない、濃紺の暁闇を見上げる。

 息を深く吸い込み、これを一気に吐き出した瞬間、穢れた心が浄化され、負のエネルギーがこの世界のどこかへ吹き飛んだ気がした。

 ――この夜空の下にいる私と今、どこにいるのか分からない七緒。

 夜空を見上げながら考える。七緒は交際相手の女性をなぜ殺めたのか、と。

 あの七緒がなぜ……。

 いや、彼に聞けば、彪牙ひゅうが君に聞けば事件の真相が判明するかもしれない。彼に聞いてみよう。

 息を深く吸い込み、それを吐き出したあと店内に戻り、事務室に直行する。

 そしてオフィスデスクの下に向かい、オフィスチェアに深々と座った。

 ああ……どっと疲れた……。

 たった1日で、1日だけで約10歳も年老いたような気がする……。

 今日は、今日だけは仕事どころではない。

 このコンビニが暇な店舗でよかったと今、心の底から思った。

 それにしても退勤時間までがやたらと長く感じられる。とはいっても残り時間は約3時間、それまでの間は寝て乗り切ればいい。

 オフィスデスクに突っ伏し、頭をネックピローに乗せ、目を閉じる。

 意識を徐々に手放し、眠りに落ちた。

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