第6話
厨房には普段使われていない小窓が存在する。
使用人たちが「締め切っている」と勘違いしているだけで、ずっと鍵が開いている小窓は夜中に忍び込むにはちょうど良い入り口だった。
厨房と本邸は別々の建物ではあるが、渡り廊下で繋がっているため、一旦中に入ってしまえば本邸への移動は楽勝だ。
リィラはここに住んでいながら、この家の家族でありながら、本邸へ出入りしたことは片手で数えられるほどしかない。それも遠い昔の出来事だからほとんど忘れている。そもそも禁じられているから近付くこともいけないことだ。
自分の家のはずなのに知らない場所。人に見つからないように細心の注意を払い、いざとなれば人の意識から逸れる魔術を使い、目的地に向かう。
場所は妹のいる部屋だ。
リィラの計画に賛同したノーチェが言うには、母は付きっきりで妹の世話をしているが、1日に二度そばを離れる時間がある。
それは巫女としての仕事である朝晩の祈りを行う時間だった。
まだ幼く、泣き声などで場の磁場を乱すおそれがあるため、妹は連れてはいけないのだという
その間、母が信頼をおいている使用人に世話を任せているが、そもそも祈りの時間には使用人も参加しているため、本邸にいる使用人の数も減るのだという。
「だから、祈りの時間のあいだ、そこそこの人数でやっとどうにか出来るようなトラブルを起こしてみるよ。姉さんはそのタイミングで妹の部屋に入って」
ノーチェがそう言った通り、残っていた使用人を隠れて観察していると、あわててバタバタとどこかへ向かって走っていくのが複数見られた。ノーチェが言う「トラブル」が起きたのだろう。
見えるところ、わかる範囲に人の気配が完全になくなったことを確認して、リィラは妹がいると教えられた部屋に入った。
大きな部屋だった。
穏やかで、静かで、整えられた部屋だった。
妹が眠っているからだろうか。オレンジ色の常夜灯だけがついていて暗かったが、彼女がいる場所はわかった。
部屋の真ん中にある白いゆりかご。その上に垂れているベッドメリーがゆるやかにまわっている。
音を立てないように、リィラはゆりかごに向かう。
ゆっくりと、覗き込むと彼女はやはりそこにいた。
白い清潔な服を着せられて、柔らかな布団にくるまれた彼女は、自分のこぶしを口に入れながら、その目を開いていた。
眠っていなかったのだ。
幾度か穏やかにまばたきをしながら、澄んだ瞳がリィラを見ていた。
「…………っ」
リィラはなぜか、その瞳に光を見た。
暗い部屋なのに、まぶしい、と思った。
だからだろうか。
しばらく目を合わせていて、やっとはっとした。何をしにここに来たんだっけ。そうだ。「祝福」を。妹に「祝福」をしようとしていたんだ。
手を合わせ、指を組んで、目を閉じる。額の前に黒い球体が浮かんでいる、イメージ……。
そのときだった。
「ふぇ……」
今までずっと穏やかにベッドメリーを見ていた妹が、泣き始めたのだ。それは一瞬で、部屋中に、そして部屋の外へもおそらく聞こえるだろう声量になった。
どうして?
後は詠唱をするだけ。それだけなのに。
ここで一旦隠れるべきか、逃げるべきか。でももしこのチャンスを逃したら、もう二度とこんなことは出来ないかもしれない。ここに忍び込めなくなるかもしれない。ノーチェにも協力してもらった手前、全く何も出来ないままで終わりたくなかった。
だから。
「《祝福》」
乱れた心で一気に唱えた。
これから先が幸せになるおまじない。心から願った。
しかし。
瞬間、ドン、と鈍い音がした。何か抵抗のようなものを感じた。何が起きたかわからない。
ただ、「祝福」が成功しなかったことだけはわかった。
次にリィラが目を開くと、ゆりかごは倒れ、
「ふぇぇぇぇん!!! うぇぇぇぇぇん!」
妹は床に放り出されていた。半ば叫び声にも近い泣き声は一際大きく。
一体何が、起きたのか。どうして妹は床に放り出されているのか。丈夫なゆりかごが、どうして倒れたのか?
ああ、誰かが来る前に逃げなければ。でも、妹をこのままにしておくわけにも。
リィラは焦りながらもゆりかごに戻すために床に投げ出された妹にそっと触れようとした。
「ランジェに触らないで!!!!」
部屋に入ってきたその存在に、差し出した手は遮られることになる。
いつもは美しいその髪を振り乱して、彼女は妹……ランジェを床から救い出す。
「ああ、怖かったねえ。痛かったねえ。ごめんねえ。一人にさせて」
抱き上げて、泣き叫ぶ娘の頭を撫でながら、あやす。目の前で繰り広げられる光景にリィラは立ち尽くすしか出来なかった。
何か言わなければと思いながら、何も言えない。
やがてランジェは泣き止み、泣き疲れたのか眠ってしまった。眠ってもなお母はランジェを抱き続けている。
「ねえ、何をしたの?」
不意に母は言った。
「何をしに来たの?」
リィラはその言葉が自分に言われているのだと思わなかった。それくらい母の口調は穏やかだった。
「ランジェに、何をしようとしたの?」
「え、えっとね、お母様」
「リィラ。あなたは、本当に……」
母の視線は妹を見つめている。リィラのほうはちらりとも見ない。リィラの話をしているのに。
「本当に、人を不幸にするしか出来ないのね」
あなたは『間違い』なのよ。かつて母に言われた言葉を思い出す。
スポンジに染み込む水のように。その言葉は心臓にゆっくりと染み込んでいった。
「……え?」
「──出ていきなさい」
「お母……」
母がわたしを見ている。
けれど、その瞳に込められた感情は、リィラが願っていたものとはかけはなれていた。これ以上ない敵を見るような。大切な人を殺した誰かでも見るような、強い憎しみ。
母はその目でリィラを睨み付けながら、告げた、
「今すぐ出ていきなさい! この部屋から、この家から、あの離れから! そしてもう二度とこの敷地に入らないで!」
そのあとの記憶は疎らだ。
気付けばリィラは一冊の本を持って、暗い道を歩いていた。
ノーチェに何も言わずに出てきてしまったと、月を見上げながら少しだけ後悔した。
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