第51話 ”捉われぬ存在”オビター・ディクタム
アーツはすぐさま川の方向へ手を伸ばした。川を流れる水が高速でアーツの手に向かって飛んだかと思えば、それは剣の形となり彼の手に収まった。同じようにして、もう片方の手にも水の剣を形成し構える。
アーツ・ドニエルトは水を操作した戦闘を得意とする。水を手足のように自在に動かせるし、水で武器を形成することもできる。自身の肉体の水化も可能だ。
水の剣を構えて、オビターと名乗る宙に浮かぶ男に斬りかかる。
しかし手ごたえがまるで感じられず、それとともに視界が様変わりした。彼は川を隔てた反対側にいつの間にか移動していた。川を渡った記憶などまるでないのにである。
さしものアーツもいささか困惑しつつ振り返る。オビターは先ほどと同じ場所で、相も変わらず呑気そうに微笑みながらプカプカ浮かんでいた。空中でリラックスした座りポーズをしている。奇妙な光景だ。
「無駄なことはやめなよー」
「……」
アーツは剣化していた水を解除し、さらに川から水を呼び寄せる。彼の周囲に巨大な槍がいくつも形成されていく。彼が手を振るうと槍化した大量の水が一斉にオビターに向かっていった。しかし槍の全てがオビターに命中することなく、まるで槍自らが避けていくかのような不自然な軌道を描いて周囲の建物の壁面や石畳に突き刺さった。
再び剣化した水を両手に構える。そして彼の体が溶けるかのように水化し、大きな水溜まりに広がった。そこからアーツの分身体が十体ほど現れる。オビターは興味深げに様子を見ている。分身体は散り散りに駆け回り、各々別の角度からオビターに向かっていき斬撃を振るう。
今度は手応えがあった。思ったよりもずっと軽い感触……いや違う、斬ったのはオビターではない、分身体だ。アーツの分身体はそれぞれ別の分身体を斬り払っていた。先程と同様にいつの間にか位置を変えられてしまっていた。
「止めときなって、攻撃したってボクには当たりっこないんだからさ」
アーツは残りの分身を解除すると、オビターに向き直る。
「近づいても移動させられるし、攻撃も逸れていく……それがお前の能力か?」
「まあそうだねー。ボクはオビター・ディクタム、”捉われぬ存在”」
「眷属は主神の内面を反映して生まれるというが、あまり正義の神の眷属らしくない能力だな」
「仕方ないさ、マグナ様自身も迷っておられるからね。正義とはどうあるべきか?その答えを未だ掴めないでいる。ひょっとしたら答えなんてどこにも無いのかもしれない。ボクはそんなマグナ様の心の迷い、正義の曖昧さを体現した眷属なのさ」
マグナが神となってからまだ三か月も経っていない。彼の心の有りようは俗世離れなどできておらず、まだまだ人間の頃のままであった。そんな状態のままで生まれた眷属もまた、マグナの内面を引き継いでいる。
「難しいよね、真実にたどり着くというのは。人を殺すことだって、革命や正当防衛など事情によって正しいとされることもあるし、一概に悪とは言えない。考えれば考えるほど、絶対的に言えることなどないように思えてくる。そう、真実なんてのはね、求めようとすればするほどかえって遠ざかっていくものなのさ」
「……だから、攻撃しようとしてもお前には届かないんだな」
アーツは得心のいった顔をする。正義という概念的な神から生まれた眷属だからか、その能力も概念を物理化したようなものであり、相対する身としてはひどく厄介に感じられた。
「攻撃しようとしたってボクには届かないし、だからと言って攻撃しようと思わずに攻撃するなんて土台無理だと思わない?心の無い動く人形か、無我の境地に至った人間ならボクを倒せるかもしれないけれど……どうする?続ける?」
(ここで本気を出してもな……)
アーツはしばし考える。彼は故あって、自身の能力に制限を掛けている。このオビターという眷属を倒すには自分も力を解放しなければならないだろう。しかし町中で真の力を引き出せば、町は甚大な水害に見舞われるだろう。そもそもこの眷属からは敵意を感じない。果たしてここで本気を出してまで倒す必要があるのだろうか?
「ボクははっきり言って、君と戦うつもりはないよー。ボクはマグナ様からブリスタル王国を守護するよう仰せつかっているから、もし君が良からぬことを企んでいるのなら懲らしめなきゃいけない。でも君からはそういう気配を感じないし、目的が不穏なものじゃないならむしろ協力してあげるよ。正直暇だしねー」
「……」
にこにこ笑っているオビターに毒気を抜かれたアーツ。
やがて彼は剣化させていた水を解除するのだった。
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