りん
私に食事を運んだ女中が凄惨な目に遭ってから二日経った。
何も状況を知らない人がそれだけ聞くと、たった二日、そう感じるかもしれない。
でも私はこの二日が途方もなく長い時間に思えた。
「…っはぁ…!!ゲホッ!ゲホゲホッ!!!」
あの女中と恋仲だったであろう、見張の男。
私はこの二日間、ずっと彼に水責めされている。
昨日は眠ろうとした瞬間に何度も顔に水をかけられた。
寝ることを許されず夜を明かし、今は髪を思い切り掴まれて水の溜まった桶に顔を沈められていた。
苦しくて苦しくて泣き叫びそうになりながらひたすら時間が過ぎるのを待った。
私がした事ではないのに恨まれ、傷つけられる意味が分からなかった。
「葉月にあんな事をしておいて楽に死ねると思うなよ、妖怪が!!」
違う、私じゃない。
私はあんな卑劣な事はしないわ。
妖怪でもない、私は遊雷の贄よ。
遊雷、お願いだから早く来て。
「やっ…やめてっ…!!!お願」バシャン!!
お願いだから早く助けて!!
もう苦しくてつらくてどうにかなりそうなの。
水の中で何度も遊雷を思い浮かべた。
早く遊雷に捕まえてほしい。
私はこんな最悪な場所でちゃんと学んだの。
遊雷の腕の中が一番安全で安心できるところだって。
ふと目が覚めて自分が気を失っていた事に気が付いた。
相変わらず着物は濡れていて寒い。
皮肉にも気を失った事によって睡眠が取れた。
でも、体が燃えるように熱い。
不快な頭痛と倦怠感で自分が熱を出している事に気が付いた。
きっと風邪を引いたのね。
びしょ濡れの着物で過ごしていたんだから不思議な事ではない。
それより全身が痛い。
ズキズキしてすごく不快だ。
遊雷に会いたい、今すぐに会いたい…。
遊雷は今どこで何をしているんだろう。
遊雷……、寂しい、心細い、怖い。
このまま置き去りにされたらどうしよう。
遊雷がそんな事するはずないのに、熱があるせいか嫌なことばかり考えてしまう。
ここで弱気になればあの女の思うツボなのに。
「りん。」
優しい声で名前を呼ばれて、ふわりと頭を撫でられた。
「遊雷…」
その手の温もりに涙が溢れる。
心の底からあなたに会いたかった。
「遊雷っ…帰りたい…帰りたいよ…。」
どうやってここへ来たの?
遊雷と離れて何日経った?
「ねぇ…遊雷…。」
何か答えてよ、お願いだから…。
パッと目を開けて、絶望する。
一瞬の眠りの中で私は夢を見ていた。
遊雷はここにはいない。
その事実を突きつけられた瞬間私は今までにないくらい涙を流した。
夢なんて見たくなかった。
余計に遊雷に会いたくなる。
「被害者ぶるな、妖怪の分際で。」
今私が一番恐怖を感じる声だった。
見張りの男が帰って来た。
「お前のせいで…っ…お前のせいで今朝…葉月が死んだ!!!」
男は泣き腫らした目で私を睨みつけながら叫んだ。
「お前だけは…絶対に許さないからな……。」
ゆらゆらと歩いてくる男の手には木刀が握られていた。
木刀で殴られるのは嫌いだった。
殴られる事自体好きじゃないけど、前に一度木刀で痛めつけられた事があるから断言できる。
木刀で殴られるくらいなら素手で思い切り殴られた方がマシだって。
やめてと喚き散らしたいけど、体が怠くて熱くて言うことを聞かない。
せめてもの抵抗で上半身だけを起き上がらせ、這うようにして後ずさった。
「お前の主人はいつになったら助けに来るんだ?
もう何日も経っていると言うのに文の一つも届かないぞ。
どうせ主人に相手にされない腹いせに葉月を殺したんだろう…!」
涙を浮かべよく分からない話をする男。
「何も…私は何もしていないし、できない。」
「黙れ!!!!!」
バキッ!!!!「ゔっ!!!!」
強烈な一撃が左肩に入った。
あまりの痛さに声は出ず、打たれた所を押さえて蹲った。
「ゔっ………ぅぅ……」
痛い…くらくらするし吐きそう…っ…!!
「雷神様を術で惑わすくらいだ…葉月のような無力な女は簡単だっただろうな…」
とめどなく溢れる涙を見て、男が本当にあの女中を愛していたのだと感じた。
「私じゃない…」
「お前が再び雷神様を誑かす前に俺の口からこの事実を伝えてやる。
覚悟しておけ。」
もしもそんな事をしたら、死ぬ事になるのはこの男だけ。
遊雷はきっと何があっても私を信じるはずだから。
「そんなの駄目…
死にたくないなら私を信じて、お願い!」
今までの事から察するに、遊雷は私を侮辱した者を許してはこなかった。
この男もきっと遊雷の怒りを買うことになる。
遊雷は私意外には情けをかけない。
どう足掻いてもこの男は殺されてしまうだろう。
「黙れ!!!薄汚い女め!!!!」
バキッ!!!!「ぎゃっ!!!」
出そうとして出した声じゃない。
体が何よりも早く反応して出た声だった。
それもそのはず、この男は容赦なく私の左頬を木刀で打った。
木刀が頬骨に当たった瞬間、強烈な痛みに支配され、その痛みは火傷のように広がっていく。
勝手に涙が出てきて、私は畳でのたうち回った。
痛みと悲しみは途端に怒りへと姿を変える。
「自分が守れなかった命を私のせいにしないで…!!!私はやってない!私を殴るなんてお門違いだよ!!!」
極度の疲労、恐怖、苦痛、これら全てが私の穏やかな部分を奪った。
怒りに任せて人にこんな風に大きな声を出したことはない。
自分を抑えられなかった。
「私を拷問する前にあの女を調べなさいよ!
私は無力な贄でこうして喚く事しかできない!
本当に何かできるのならこんな事してるあなたを酷い目に合わせるに決まってるでしょ!!
あなたは他人に唆されてそれを鵜呑みにしている馬鹿よ!そんなだから愛した人を失うの!」
今の私の言葉で男を完全に怒らせたのだと分かった。
握られている木刀からギリギリと音がする。
ここで殴り殺されるかもしれない。
私も怒りに支配されていてまともな判断ができなくなっている。
だからだろうか、普段なら絶対に考えつかない事が心の一番奥に響いていた。
目の前の男を殺してでも、私は生き残ってみせる。
こんな無力な私でもほんの少しだけ強くなれたのかもしれない。
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