第38話:強請
1564年6月12日:織田信忠視点・8歳
「菅九郎殿、御上も朝廷も苦しいのだ。
何とか上総介殿に取りなしてもらえないだろうか?」
織田家が信長の独裁だと思っている飛鳥井雅綱が頭を下げて頼んで来る。
副使を務める山科権大納言言継も、恥も外聞もなく頭を下げる。
先の勅使は偉そうにしていたが、今回の二人は公家の誇りを捨てている。
帝は、信長が将軍の御領所である山科に一万の兵を入れた事に恐怖した。
一度内諾していた約束を反故にした事で、報復されるのではないかと恐怖した。
恐怖した帝は直ぐに最初の勅使を送ったが、観音寺城の信長に門前払いされた。
門前払いされた勅使は俺のいる尾張のまで下向してきたが、俺の幼い姿を見て舐めた態度をとったので、旗本たちに命じて半殺しにした。
帝は更に恐怖を募らせたのだろう。
織田家との関係を修復しようと、先代から付き合いがある飛鳥井雅綱を武家伝奏に復帰させた。
それどころか、同じく織田家と付き合いのあった山科言継を、前例がないのに武家伝奏に任じて送って来た。
とはいえ、帝がそこまで下手に出ても、此方に利の無い事は受け入れられない。
家臣や敵が当然だと思う利があっても、簡単に妥協するのは危険だ。
転生者や智謀の士に俺の心を読まれる可能性がある。
転生者が天皇廃止論者の可能性もあるが、自分に都合よく考えてはならない。
帝に強欲非道だと思われるくらいの要求をしなくてはならない。
「無理です、父上は激怒されています。
父上だけでなく、私も家臣たちも激怒しています。
本願寺と天秤にかけておいて、今更恩着せがましく褒美も何もない」
「申し訳ない、申し訳ないが、今も言った通り朝廷には何の力もないのだ。
十万もの兵が若狭にいるのだ、言い成りになるしかなかったのだ。
それでも御上は織田の忠勤を考え、勅勘を解かず門跡を取り上げたままにした」
確かに、若狭に十万もの一向衆が上陸したら、身近に死を感じるだろう。
今回は朽木街道を通って近江に侵攻したが、一向衆は京に攻め込む事もできた。
兵を分けて鞍馬街道や雲ケ畑街道から京を襲う事もできた。
だが、これを俺から口にすると、帝や朝廷に情けをかけたと思われる。
帝や朝廷に言い訳をさせて、渋々認める形にしなければいけない。
俺は黙って二人の言い訳を聞き続けた。
どの程度で許して何をどれくらい要求するかは、信長と話し合っている。
観音寺城と勝幡城に分かれていても、旗振り通信で毎日話し合っている。
旗振り通信は時速720キロで情報を伝えられる。
しかも一方通行ではなく、交互に情報をやり取りできるのだ。
信じられないほどの健脚を誇った江戸時代の御用飛脚でも三日かかった、江戸大阪間の距離を、たった八時間で伝える事ができるのだ。
俺と信長は、もっと短い観音寺城と勝幡城の間で連絡するだけだ。
多少離れていようと、俺と信長が疑心暗鬼になる事はない。
佞臣や悪臣に付け入る隙を与えない。
旗振り通信の効果はそれだけではない。
他の大名家とは比べ物にならない、家臣に対する指揮統制力を持った。
前世の信長が軍団長に与えていた裁量権を大きく減らせるのだ。
「許し難い事ですが、事情は分かりました。
ですが、織田家に何の利もないのでは、私も父上を説得できない。
それくらいの事は、お二人も分かっておられますよね?」
「分かっている、先に頼まれていた伊勢神宮の斎王と斎宮寮を認める。
両賀茂神社の斎王も認める。
尾張、美濃、伊勢の国司に任じる。
六角を匿っていた興福寺には勅勘を与えて門跡を取り上げる。
これで上総介殿に取りなしてもらえないだろうか?」
「父上と私は、官位には何の興味もない。
官位に利があるならもらうが、国司の地位になど興味はない」
「では、何の官位なら利があるのだ、その官位を与えるように取り計らう」
「それだけでは駄目だ、少し利のある官位だけでは父上を説得できない。
この度のたくらみに加わった者を討伐する綸旨が欲しい」
「それは……」
「嫌なら構わない、実力で滅ぼすだけだ。
その時に京が焼け野原になり、御上や公家が巻き込まれても知らぬ」
「待ってくれ、頼む、織田が京に上るまで待ってくれ。
織田が京を守ってくれるなら、どんな綸旨でも出せる。
だが今は、将軍家と三好が京を支配しているのだ。
このような状況では、出せる綸旨が限られるのだ」
「そのような心配は不要だ、三好とは話がついている」
「なんと?!」
「あの状態で、三好まで加わっていたら、我が家も苦戦していた。
そんな事は三好も分かっているのに、攻めるどころか兵も集めなかった。
何故か分かるだろう、織田家と三好家は不戦の約束をしている、心配いらぬ」
「だが……将軍家が……」
「将軍など三好の傀儡、何もできぬ、心配いらぬ。
現に、織田家が将軍家の御領所である山科を押領しても何もできないでいる」
「山科は元々帝の御領所なのに……」
「それは父上も私も知っている、だから将軍家から押領してやったのだ。
朝廷の出方次第では、桑名と一緒に帝に返しても構わない」
「本当か?!」
「ああ、だが、織田家を代官にしてもらう」
「もちろんだ、織田家が治めてくれなければ、また押領される」
「桑名に山科、多くの公家が官位をもらえる斎宮寮の復活。
少々の事では帝に献納できないのは分かってるな?」
「分かっている、何でも言ってくれ。
武家伝奏としてできるだけの事をする」
「では、権大納言殿が言われた官位は当然として、近江、伊賀、若狭、飛騨、越前、加賀の国司官位を自由にさせてもらう」
「なに、官位を自由にとはどういうことだ?」
「国司の下に介、掾、目がいる。
郡司の下に少領、主政、主帳がいる。
その官位を、父上が自由に与えられるようにしてもらいたい」
「むりだ、それは幾らなんでも無理だ。
官位は朝廷が決める事、勝手に与えても朝廷の記録には残せない」
「だったら朝廷の記録に残してくれればいい」
「いや、それだけは無理だ、官位は朝廷に残された僅かな利なのだ。
これまで無くなったら、最低限の儀式すらできなくなる。
地下家の者たちに褒美も与えられなくなる」
この時代の地下家は領地も扶持もなく、儀式を行った時に五百文とか三百文もらって生活の足しにしていたのだったな。
それだけでは生きて行けず、仕方なく土倉に金を借り、結局金を返せなくなり、娘を奪われる地下家が多いとも聞いている。
「織田は他の連中とは違う、銭を惜しんだりしない、必要な銭は渡す。
織田家が奏上した官位を認め朝廷の記録に残してくれれば、銭を渡す」
「それならば認められるかもしれない。
それは先にあげた九カ国で良いのか?」
十分脅かせたし、交渉の主導権も取れた、言葉遣いを戻しても大丈夫だな。
「はい、今の所は九カ国で構いません。
新たな国を切り取ったら、その時はその国の官位も自由にさせていただきます」
「分かった……分かりました、帝に奏上してみる」
「斎宮寮ですが、ここも全ての官位をいただきます」
「それは……」
「先ほど話したように、最初は公家と地下家の官位は朝廷の好きにしていただく心算でしたが、織田家と本願寺と天秤にかけたのです。
それどころか、公家や地下家の中には本願寺に組する者もいた。
そのような公家や地下家に、織田家が再建する斎宮寮の官位は与えられない」
「……分かりました、確約はできませんが、できる限りの事はします」
「勝手に斎宮寮の官位を名乗った者は不慮の死を遂げると思ってください」
「「ひっ!」」
「その代わりと言っては何ですが、山科は年貢を納めるだけでなく、山科郷士の禁裏警固も復活させます」
「本当ですか?!
そうしていただけたら公家と地下家の負担が軽くなります!」
かかった、俺の策にかかった。
これで、山科郷士だと言って織田家の者を内裏に入り込ませられる。
朝廷の事だけでなく、朝廷に来る者を見張る事ができる。
内裏警固に人を送れるなら、織田家には山科を帝に返す以上の利がある。
帝に献納する心算だった大湊と松坂湊は、斎宮寮の費用に使える。
最初考えていたよりもずっと有利になった、織田家の利が多くなった。
今の俺には大した額ではないが、織田家に利が残るなら他の事に使える。
信長が詐称した上総守で従五位上、今も詐称している上総介が正六位下だ。
だが詐称なので、正式な官位に任官した訳ではない。
従五位上近江守になれば、正式に任官した連中が相手でも位負けしない。
それ以上に大きいのは、家臣たちにも正式な官位を与えられる事だ。
大名が勝手に国衆地侍に与えている、何の意味もない詐称の官職名、受領名とは比べ物にならない。
朝廷に憧れ銭を積んでも官位求める国衆地侍、伊勢神宮の権威を貴ぶ国衆地侍には、調略の大きな武器になる。
ただ、本当の官位には定員が決められている。
まあ、織田家が与えるから、定員数など無視して必要なだけ与えればいい。
帝も朝廷も、ちゃんと銭を渡せば文句は言わないだろう。
多少問題があるとすれば、国によって位階が違う事だ。
伊勢の少目と尾張の目は同じ従八位下だが、若狭の目は大初位下で伊賀の目は少初位上、そもそも若狭には介がいない、伊賀には介と掾がいない。
この辺は信長だけでなく官位をもらう者の気持ちを聞いた方が良い。
俺は前世も今生も自己満足でやっているから、官位に憧れる気持ちが分からない。
生まれ育った国の官位でなくても、位階さえ上がれば好いのか確かめよう。
万が一、帝と朝廷の抵抗が激しい場合は、斎宮寮の官職だけ好きにさせてもらう。
織田家が銭を出して復活させるのだ、朝廷に文句は言わせない。
帝には、文句が言えないくらいの礼をする、桑名の矢銭や山科の年貢とは別に五千貫渡せば何も言わないだろう。
★★★★★★以下は資料の好きな人だけ見てください。
「国司職員」
国の等級:職員:員数:位階 :職分田 :事力(従兵下男にようなもの)
大国 :守 :1人:従五位上:2町6段:8人
:介 :1人:正六位下:2町6段:7人
:大掾:1人:正七位下:1町6段:5人
:少掾:1人:従七位上:1町6段:5人
:大目:1人:従八位上:1町2段:4人
:少目:1人:従八位下:1町2段:4人
:史生:3人:無位無官:6段 :2人
上国 :守 :1人:従五位下:2町2段:7人
:介 :1人:従六位上:2町 :6人
:掾 :1人:従七位上:1町6段:5人
:目 :1人:従八位下:1町2段:4人
:史生:3人:無位無官:6段 :2人
中国 :守 :1人:正六位下:2町 :6人
:掾 :1人:正八位上:1町2段:4人
:目 :1人:大初位下:1町 :3人
:史生:3人:無位無官:6段 :2人
下国 :守 :1人:従六位下:1町6段:5人
:目 :1人:少初位上:1町 :3人
:史生:3人:無位無官:6段 :2人
「斎宮寮職員」
斎宮勅別当:1名:三位から四位・後に斎宮頭が兼任
女官別当 :1名:斎宮寮の総裁女官・極稀に任官
主神 :1名:
斎宮頭 :1名:従五位上
助 :1名:正六位下
大允 :1名:正七位下
少允 :1名:従七位上
大属 :1名:従八位上
少属 :1名:従八位下
斎宮内侍 :斎宮寮の女官で斎王が伊勢神宮へ行くときに京都から同行
斎宮宣旨 :斎宮寮の女官
史生 :4名:無位無官
使部 :20名:無位無官
「斎宮十二司:斎宮管轄下の十二の官庁で斎宮外院に役所があった。
主神司;斎宮の神事事務官だが800年に神事事務管轄が神祇官に移動して廃止。
中臣 :1名:従七位
忌部 :1名:従八位
宮主 :1名:従八位
神部 :不明:不明
舎人司 :斎宮の庶務事務
長官 :1名:従六位。
主典 :1名:大初位。
舎人 :不明:不明
蔵部司 :斎宮の倉庫事務
長官 :1名:従六位。
主典 :1名:大初位。
蔵部 :不明:不明
膳部司 :斎宮の食料事務
長官 :1名:従六位
判官 :1名:正八位
主典 :1名:大初位
膳部 :不明:不明
酒部司 :神酒事務
長官 :1名:従七位
酒部 :4人:不明
水部司 :斎宮の水事事務
長官: :1名:従七位
水部: :1名:不明
殿部司 :施設事務
長官 :1名:従七位。
殿部 :不明:不明
采部司 :斎宮の女官事務
長官 :1名:従七位。
采部 :不明:不明
掃部司 :1名:従七位
掃部 :6人:不明
薬部司 :斎宮の製薬事務
長官 :1名:従八位
薬部 :不明:不明
炊部司 :斎宮の調理事務官。
長官 :1名:従六位
主典 :1名:大初位
炊部 :不明:不明
門部司 :斎宮の門番事務
長官 :不明:不明
主典 :不明:不明
門部 :不明:不明
馬部司 :斎宮の馬事事務
長官 :不明:不明
主典 :不明:不明
馬部 :不明:不明
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