第34話:嵐の前

1564年4月15日:織田信忠視点・8歳


「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん、いんよんがよん……」


 槍足軽たちが、槍を叩き下ろす訓練をしながら九九を口ずさんでいる。


「いろはにほへとちりぬるを……」


 鉄砲足軽たちが、銃剣を装着した火縄銃を槍のように使う訓練をしながらイロハを口ずさんでいるが、ちゃんと文字を思い浮かべられているだろうか?


 俺は足軽たちに読み書き計算を教えた。

 漢字までは無理だが、平仮名は覚えさせたい。

 割り算は無理だが、暗記する事で掛け算までは覚えられると思う。


 算盤も作らせているが、まだ数がそろっていない。

 勝手方、奉行連中には渡しているので、少しずつ計算が早くなっている。


 勝手方の見習につけた小姓たちが、算盤を手足のように使いこなすようになってくれたら、目立たないが織田家の力になってくれるだろう。


「若殿」


 初めて甲賀衆を召し抱えた時から俺に仕えてくれている、夏見源八郎が来た。

 織田忍軍の組頭で下忍中忍三百人を率いる上忍だ。

 数多くいる忍者組頭の中でも腕利きの一人だ。


「加賀に動きがあったのか?」


「はい、かなりの一向衆が武器の手入れをしていました」


「どれくらいの人数だ?」


「申し訳ございません、確かな事は分かりません」


「以前の一揆では、二十万もの大軍だったと聞いている。

 それぐらいの人数を送ってくるのか?

 越前の朝倉家が、そんな大軍の領内通過を認めるのか?」


「申し訳ございません、そこまでは調べられていません」


「分かっている、人手が限られているのだろう。

 もっと銭を使え、銭を使ってしゃべらせろ」


「はっ、そのようにさせていただきます」


 常識的に考えて、摂津の石山本願寺がどれほど約束しようと、朝倉家が加賀の一向衆を信じる訳がない。


 何代にも渡って、小さな諍いも数えたら何十回と血みどろの戦いを繰り返し、殺し殺されてきたのだ、信用できるはずがない。


 だったら加賀の一向衆は、必要もない戦いの準備をしているのか?

 俺と戦うために出陣した朝倉家が留守にした、越前を狙う気なのか?


 そんな自分に都合の良い事を考えていては、勝てる戦いも勝てなくなる。

 思わぬ落とし穴に落ちて殺される事になる。

 俺ならどうする、越前が通れない状態で織田を襲う方法は何だ?


 若狭武田は権力を巡って親子で争っている。

 どちらかに味方すると言えば、無傷で上陸できるかもしれない。


 愚かな選択だが、今負けて殺されるくらいなら、後の事は考えずに悪魔に縋りつく可能性はある。


 密かに二十万人を上陸させられたら父上に圧勝できるが、そんな事は不可能だ。

 何度かに渡って上陸させる事になるから、必ず事前に知ることができる。

 奇襲さえされなければ、一万の鉄砲足軽に十段撃ちさせれば勝てる。


 奇襲を許さないための準備はできるだけ整えている。

 便利な携帯や無線はないが、戦国時代に導入できる通信網は整備してある。


 緊急時の騎馬伝令はどこでも使っているが、織田家の騎馬伝令には伝書鳩を運ばせているので、定時に決まった城砦を行き来する事になる。


 何かあれば定時以外に緊急の伝令を出すのは当然だが、定時の伝令が来なければ不測の事態が起こった事が分かる。

 定時の伝令も送れない状態になったのが分かる。


 伝書鳩も定時に行き来させて遠距離伝令網を築いた。

 だが伝書鳩を送ったままだと、そこを新しい家だと思ってしまう。

 伝書鳩の家を定めて、そこから送った鳩は数日以内に家に向けて放つ。

 手間も費用もかかるが、勝ち残るためには必要な事だ。


 武田信玄が利用していたと言う、狼の糞を利用した狼煙台網も整備した。

 既存の城砦で狼煙を確認できない場合は、中継点に砦を築くか、良い位置にある村に見張り台を造って狼煙網に穴がないようにした。


 狼煙網が整備できてからは、もっと細やかな情報網を整備した。

 海自の手旗信号を理解できるほどの賢い通信兵は育てられていないが、江戸時代の中期頃から米相場の情報を大阪から江戸の伝えた、旗振り通信は再現できた。


 昼は大きな旗を使い、夜は松明を使って次の見張り台に情報を伝える。

 敵の有無、兵数くらいは松明の位置で伝えられるようにした。

 大きな旗を使える昼なら、もっと細かい情報を伝えられる。


「奥美濃の旗振り通信が上手く伝わっているか確かめろ。

 もう一度源八郎を呼べ、加賀の一向衆が飛騨から攻めてくる可能性を探らせろ」


1564年4月16日:織田信忠視点・8歳


 何時もよりも多い旗本が完全武装で執務の間に詰めている。

 いや、執務室だけでなく、隣の部屋にも数多くの旗本が完全武装で詰めている。

 平時の本拠地、二之丸での護衛なら、普通は平服なのに籠城時の物々しさだ。


「うっ……御呼びにより参上いたしました」


 俺の呼び出しに応じて入ってきた林秀貞と柴田勝家を含めた十数人が、完全武装の旗本たちを見て殺されると思ったのだろう、刀に手をやった


「……実は若君にお話ししなければいけない事があります」


 ここで戦っても確実に殺されるだけだと思ったのだろう。

 柴田勝家たちが暴発する前に謝罪しようと、林秀貞が慌てて話しかけてきた。


「本願寺の密使が来たのを黙っていた事なら、聞く必要はない」


「「「「「うっ!」」」」」


 この場で誅殺されると思ったのだろう、柴田勝家たちが刀を抜こうとした。


「殺す気はない、話をするだけだ、そこに座れ」


「「「「「……」」」」」


「勘十郎殿を担いで父上を殺そうとしたお前たちを、本願寺が謀叛に誘う事など分かっていた、だから調略の使者が来た事は咎めない。

 だが、報告しなかった事は許し難い」


「申し訳ございません。

 若殿が申されるように、殿に謀叛した負い目があり報告できなかったのです」


 他の者が刀の柄を握ったままなのに、林秀貞は無手で必死に言い訳を始めた。

 若君から若殿に代わったか、やっぱり無意識に俺を舐めていたな。


「直ぐに一族一門を根切りにする気はないが、そんな言い訳で許されないのは分かっているだろう?」


「はい、疑いを晴らすために、命懸けで戦わせていただきます」


「はっきり言う、お前たちがこの場で謀叛しても構わない。

 だがその時は、見せしめのために一族一門老若男女根切りにする」


「本願寺の使者が来た事を黙っていた事、言い訳のしようもございません。

 ですがそれは私一人の罪、一族一門はお許しください。

 その代わり、ここで腹を切れと申されるのでしたら切らせていただきます」


「ここで腹を切られても迷惑なだけだ。

 とはいえ、頭を下げただけで許しては、他の者たちに示しがつかない。

 どうやって裏切りの償いをするか言え」


「裏切ってなどいない!」


「黙れ権六!

 殿に刃を向けたのに許された恩を忘れ、密使が来たのを黙っていた!

 それが裏切りでなくてなんだと言うのだ!

 迷いがあったから黙っていたのだろうが!

 ここにいない者は、ちゃんと密使が来た事を報告してきたぞ!」


 俺の言葉に、全員がその場にいる者を確かめだした。

 織田勘十郎信行を担いで織田信長に謀叛した者たちの中で、この場にいない者を確かめているのだろう。


「若殿、我らに償いの機会を頂けないでしょうか?

 本当に、殿や若殿を裏切る気持ちなど全く無かったのです。

 本願寺が誰と手を組もうと、殿や若殿に勝てるとは思えません。

 ただただ、勘十郎様を担いだ事が後ろめたくて言えなかっただけです」


「その通りでございます、裏切る気など全くありませんでした」

「某も同じでございます、裏切る気など毛ほどもありませんでした」

「新五郎殿が申されている通り、後ろめたくて言えなかったのです」


「もう一度言う、そのような言葉だけで許されると思っているのか?」


「人質を差し出させていただきます。

 妻と嫡男の二人を人質に差し出させていただきます」


「某も妻と嫡男を差し出させていただきます」

「某も差し出させていただきます」

「私も差し出させていただきます」


「主君に刃を向けるような奴が、妻子を見殺しにしない訳がないだろう!

 その程度の事で、信を得られると思うな、愚か者!」


「どのようするれば信じて頂けるのでしょうか?」


「城に戻って自分で考えよ。

 籠城するなら好きにせよ、本願寺を迎え討つ前の生贄にしてくれる。

 お前らの裏切りに怒り狂う者共を率いて根切りにしてくれる」


「若殿、どうか、どうかお許しください!

 何でも致しますので、根切りだけはお許しください。

 どうすればお許しくださるのかお教えください!」


「「「「「どうかお許しください」」」」」


 狂人のように必死で謝る林秀貞に圧倒されたのだろう。

 猛将として有名な柴田勝家も必死で謝っている。


「根切りが嫌なら一旦城地を返上せよ。

 本願寺との戦いで織田家への忠誠を示せ。

 武勇次第では城地を返してやる、どうする?!」

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