第29話:独り立ち

1564年3月10日織田信忠視点・8歳


 俺は直属の軍勢を全て美濃の岐阜城に集めた。

 密偵を使って周囲の敵を探り、誰も動けないと確認してから集めた。

 信長を手伝うのではなく、俺が全部仕切って戦う本当の初陣になる。


 ただ、残念ながら前田慶次と池田勝三郎は近江から戻せなかった。

 二人を戻すと血気盛んな浅井長政が暴発するかもしれないから、戻せなかった。


 だから、なりふり構わず六万もの兵力を集めた。

 戦闘専門足軽二万を中核にして、普段は後方にいる黒鍬足軽二万兵も動員した。

 他国から尾張美濃に逃げてきた者から希望者を募り、二万を足軽にした。


 表向きは北近江の浅井長政を滅ぼすように見せかけて六万兵を集めた。

 周囲の敵に隙を見せない範囲で、美濃と尾張の国衆地侍二万兵も集めた。

 その後で、順調に行軍できるように西美濃各地に分屯させた。


 長島本願寺の連中が動けないように、俺が出陣している時は勝幡城と飛島城の守備を任せる奴隷を完全武装させ、何かあれば攻め込むと圧力をかけた。


 川の対岸からだけでなく、海上からも長島本願寺に圧力をかけた。

 織田水軍二万兵の内、交易で伊勢湾を離れていない艦船を使って海上封鎖した。

 そこまでしないと伊勢長島を完全には抑え込めない。


 尾張三川の洪水は頻繁に起こるので、伊勢長島のような中州に住んでいる人たちは、家の軒先に船を吊っている、何時でも船で逃げ出せるようにしている。

 その船を使って夜に動かれたら、対岸からだけでは完全封鎖できない。


 しかも中州の住人は洪水の届かない尾張や伊勢の土地に避難場所を確保している。

 財産も中州と避難場所に分けてあり、北伊勢にも拠点や地縁血縁がある。

 だから、俺が北伊勢を攻めると長島本願寺が兵を挙げる可能性があった。


 それを考えて、北伊勢を攻めるとは言わず、北近江を攻めると言って兵を集めた。

 長島本願寺の勢力圏から遠く離れた川上で渡河した。

 養老山地を大きく関ケ原まで迂回した、伊勢国員弁郡の近江側を侵攻路とした。


「帝の御領所を押領する朝敵を討つ、私に続け!」


「「「「「おう!」」」」」


 俺の言葉に全軍が雄叫びをあげる。

 内侍宣とはいえ、俺が勅命を受けた事で異常に士気が高まっている。

 圧倒的に有利で、絶対に負けない戦の上に、官軍となったのだから当然だ。


 俺は、交易に有利になる勅使を派遣してくれた帝に千貫文払った。

 酒造りに役立つ書物や記録、杜氏を集めてくれた帝に千貫文払った。

 今回は、桑名から徴収する矢銭の半分を渡す約束をした。


 成功体験が二回もあるから、御領所を取り返す内侍宣を簡単に出してくれた。

 駄目元という考えもあっただろうが、敵が弱いから出し易かったのだろう。


 六角が健在なら、養子先の梅戸がある北伊勢に攻め込む内侍宣は出し難い。

 だが今は、北勢四十八家の後ろ盾になる有力武家はない。

 俺が北畠のある南伊勢には手出ししないと約束したのも良かった。


 八万の大軍に攻め込まれたら、北勢四十八家に抵抗などできない。

 実際には五家多い五十三もの家系があるのだが、伊勢一国の石高は五十六万石で、北伊勢だけなら三十万石前後、一家平均五千石程度しかない。


 しかも千種家、長野家、神戸家といった比較的大きな家もある。

 弱小国衆だと千石しか領地がないない家もあるのだ。


 そんな弱小国衆では、総勢八万の大軍を迎え討つ事などできない。

 我先に配下に加えてくれと集まって来た。


「御使者への返事が遅くなって申し訳ありませんでした。

 今後二度と返事が遅れるような事はありません。

 忠誠を誓い、精一杯奉公させていただきますので、軍勢の端に御加えください」


 滝川一益にいい加減な返事をしていた国衆が、真っ青な顔をして忠誠を誓う。


「分かった、二度はない、今度疑わしい態度を取ったら根切りにする」


「ありがたき幸せでございます」


 以前から梅戸を裏切って内通してくれていた、員弁郡国衆の降伏臣従も認めた。

 近江攻めの時に道案内をしてくれた山口城の藤田東馬允、白瀬城の近藤弾正左衛門吉綱、向平城の田切佐兵衛、治田城の治田山城守などの降伏臣従を認めた。


 だが梅戸家の降伏臣従は認めなかった。

 六角高頼に孫にあたる実秀を処刑し、梅戸家の家臣は俺の直臣とした。


 梅戸の家臣たちにしても、俺の陪臣よりは直臣の方が功名の機会が多いので、表面はともかく内心は喜んで実秀を差し出した。


「御使者への返事が遅くなって申し訳ありませんでした。

 今後二度と返事が遅れるような事はありません。

 忠誠を誓い、精一杯奉公させていただきますので、軍勢の端に御加えください」


「ならぬ、帝や朝廷の財貨を盗んだ者は絶対に許さぬ!」


 北伊勢の調略をしてきた滝川一益の助言を受けて、許す者と殺す者を分けた。

 だが助言に関係なく、謀略の布石に必要な桑名湊の関係者は処刑した。


「御領所である桑名を十楽の湊と称し、朝廷に貢納をしなかった者は許さぬ!」


 伊勢国の桑名郡は、桑名湊を支配する会合衆が君臨統治していた。

 樋口家、矢部家、伊藤家の三家が中心となり、その下に三十六人衆が居た。

 俺は樋口家、矢部家、伊藤家につながる者を皆殺しにした。


 桑名を直接支配していた東城の伊藤武左衛門、西城の樋口内蔵、三崎城の矢部右馬允を斬首にしただけではない。


 同じ伊藤一族の桑名城主伊藤武右衛門、松ヶ島城主伊藤四郎重晴も処刑した。

 江ノ口城と江ノ奥城を持つ太田家、中江福島城の森家、江場城の佐藤家、高塚城と深谷今島城を持つ柴田家、安永城の森家、小向城の飯田家、柿城の沢木家もだ。


 長島本願寺の伊勢側対岸にあり、何かあれば協力するのが分かっている桑名郡の有力者は全て根絶やしにし、桑名湊で支配的な地位にいた者の財産は全て没収した。


 処刑しなかった桑名の連中には矢銭五千貫文を課した。

 史実の織田信長も上洛した時に矢銭を課している。

 摂津と和泉の有力者、寺社に矢銭を課している。


 俺が覚えているのは、有名な堺への二万貫文と本願寺への五千貫、後は法隆寺に課した千貫くらいだが、多くの寺社や有力者から莫大な額を集めていた。


 上洛に使った軍資金だけでなく、内裏の修理費や朝廷への協力費を全て賄える、巨額の矢銭を集めていた。


 史実の物価だと、五千貫文あれば米が一万石買えた。

 今は俺の経済政策で物価高になっているから、五千貫文で五千石の米が買える。

 これは乱暴な計算だが、五千人の足軽を一年間食わせられる額だ。


 その五千貫文の半分、二千五百貫文を約束通り帝に献上した。

 これから毎年桑名湊の運上金を半分貢納すると使者を通して伝えた。

 これで成功体験が三度になる、次の頼みも聞いてくれるはずだ。


 桑名を完全に支配下に置いてから更に南に侵攻した。

 一気呵成に攻め込んで北伊勢を支配下に置いた。

 神戸家は当主の具盛を追放する事を条件に降伏臣従を認めた。


 史実の神戸具盛はとんでもなく愚かな事をしている。

 養子に迎えた織田信孝を蔑ろにして信長を激怒させている。

 後に裏切ると分かっている神戸具盛を家臣に加える気はない。


 だから家臣に神戸具盛を追放させた。

 戦国乱世の武士は、生き残るためなら主君を裏切る者が大多数だ。

 まして陪臣から直臣に成ると、成り上がりの機会が増えるのだ。


 『一時的に許されても後に謀殺されるかもしれません、今のうちにお逃げください』と言って家から追い出すくらい平気でやる。


 心ある家臣でも、主殺しなら心理的な抵抗が大きいが追放程度なら抵抗が少ない。

 神戸具盛はわずかな忠臣に護られて興福寺に落ちて行った。

 神戸具盛の正室は蒲生定秀の娘だ、その縁を頼ったのだろう。


 神戸家の同族で、神戸具盛と同盟していた関盛信も同じようにした。

 関盛信も蒲生定秀の娘を正室に迎えている。

 史実で神戸具盛と同じように信長に逆らった関盛信は追放するのが正解だ。


 後々邪魔にならないように二人を殺してしまう方法もあるが、止めた。

 二人の縁者に母親の実家、後藤家に戻る事を許した蒲生氏郷がいる。


 将来性のある蒲生氏郷に、必要もない恨みを抱かせたくなかった。

 だから神戸具盛と関盛信を殺さなかった。

 氏郷の叔母の当たる正室と一緒に、両家の家臣に追放させて見逃した。


 逆に神戸具盛や関盛信と敵対していた長野家は降伏臣従を許した。

 俺が命じる前に、北畠から入った養子の具藤を追放する決断をしたので許した。


 一度は主君と仰いだ当主の追放を決断したのは、俺には絶対に勝てないと思ったのが一番だろうが、それだけではない。


 長野具藤が養父の長野藤定と養祖父の長野稙藤を殺したと言う噂を、家臣たちが信じたからだろう。

 確かに二人が同じ日に死ぬなんて、暗殺か疫病でなければありえない。


 俺は史実通り、長野藤定の娘と織田三十郎信包を結婚させた。

 傅役を長期間側から離すのは問題だが、北伊勢の統治には絶対に必要な処置だ。


 北伊勢を安定させ、伊勢長島本願寺と南伊勢の北畠家、両方に目配りができるような有能な人間は殆どいないから、三十郎に任せるしかない。

 四人の傅役のうち、斉藤新五郎と前田蔵人が側に残るから何とかなる。


「三十郎、古に栄えた安濃津がここにあった。

 銭も人も好きなだけ使って良い、ここに桑名に負けない湊を造れ」


「はっ、必ず」


 俺は北伊勢を任せる織田三十郎信包に全権を与えた。

 北畠程度には絶対に負けない、長島本願寺が全力で攻めてきても長期間籠城できる、一万の足軽と五千の鉄砲を預けた。


 その上で、北畠との領境に難攻不落の海城を造るように命じた。

 その海城の三ノ丸に、津波で滅んだ三津七湊の一つ、安濃津を再建して繫栄させるように命じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る