第28話:酒造
1564年1月25日織田信忠視点・8歳
「管九郎様、清酒の再現に成功しました!」
木下小一郎、史実の豊臣秀長が満面の笑みで飛び込んで来た。
目々典侍殿が帝の意向だと言って、宮内省の造酒司と後宮十二司の酒司に「延喜式」などのあらゆる酒造り記録を写本させて送ってくれた。
俺が名指してお願いした「御酒之日記」と「多聞院日記」も、帝からの内侍宣として興福寺などに命じて取り寄せてくれた。
そのお陰で興味がなく知識が乏しかった酒造りが再現できた。
「御酒之日記」と「多聞院日記」には、前世の清酒造りでも重要だった酒母仕込み、三段仕込み、諸白造り、火入れなどが詳細に書かれていた。
「延喜式」などの造酒司と酒司の記録には、清酒はもちろん焼酎や紹興酒、明の白酒に至るまで、あらゆる酒造りの方法が書いてあった。
だが、今の朝廷は自分たちで酒を造れない。
困窮が激しく酒造りの職人を召し抱えておく財力がない。
本来なら朝廷にいるはずの杜氏が全員召し放たれている。
召し放たれた杜氏の多くが、財力と武力の両方を持つ寺社に取り込まれた。
中には土倉に取り込まれた者もいて、酒造りが朝廷以外にも広まっている。
そんな酒造りのできる者の中には、不幸にして奴隷になった者がいた。
織田家の奴隷で僅かでも酒造りに係わった者は、織田家造酒司に配した。
だが、酒造りができるのに奴隷落ちするような者に、全権は与えられない。
手に職があるのに奴隷落ちするような奴は、大した能力がないか性格的に問題があるかのどちらかだ。
だから主になって酒造りをする者は他から集めた。
澄酒の虜になっている帝にお願いして、内侍宣で杜氏を集めてもらった。
武力も権力も財力もない帝だが、権威だけはある。
全国で富裕を謳われている織田家が高禄で召し抱えると言えば、寺社に抱えられている杜氏の何割かは、織田家に仕官したいと思う。
だが、僧兵も権威も銭金もある寺社から出て行くことは難しい。
どれほど酷い待遇で働かされていても、報復、追手が怖くて出て行けない。
しかし帝の内侍宣があれば、織田の大兵力の近くにある寺社からなら、少々の抵抗など無視して杜氏を引き抜き、召し抱える事ができた。
結果として、寺社とはこれまで以上に敵対する事になった。
だが中には、積極的に杜氏を集めてくれた寺社もあった。
伊勢国一身田専修寺と佛光寺が、影響下にある寺社から杜氏を集めてくれた。
そんな杜氏たちを柱に大規模な醸造を始めた。
なぜ自ら醸造を始めるのか?
有り余る銭があるから、銭で買える物なら何でも手に入れる事ができる。
だが、世の中には銭を積んでも手に入らない物がある。
叡山や興福寺、根来や高野山とガチンコの戦いをする予定なのだ。
そうなると、僧坊酒が手に入らなくなる。
質の悪い濁酒なら足軽でも自作するから、家臣たちが酒に困る事はない。
だが、帝が好まれている澄酒が手に入らなくなるかもしれないのだ。
全く手の届かない所にあった澄酒なら諦められるが、毎日飲んでいた澄酒が飲めなくなってしまったら、その欠乏感は堪えがたいだろう。
俺は、酒のために人生を台無しにした自衛官を幾人も知っている。
帝がアルコール依存症の禁断症状に陥るとまでは言わない。
人生を台無しにするような愚か者と一緒にはしないが、澄酒を贈る者に便宜を図らないとは言い切れない。
だからこれまで興味がなかった酒造りに全力を注いだ。
調略の道具に使える珍しい酒や高価な酒を自給自足できるようにする。
有り余る銭を使って、明国で書かれた酒造りの書も取り寄せた。
前世では先祖代々下戸だったので、飲んでは吐いて、吐いては飲んでいた酒。
高校時代から飲む練習を始めたが、どうしても飲めなかった酒。
良い思い出など何一つない酒。
なので、酒に個人的な思い入れはない。
どんな酒も俺には飲めない不味い水分でしかなかった。
だから日本酒ではなく麦を使った酒を広める事にした。
戦国時代だから、キンキンに冷やすビールではなく、常温で飲んでおいしいエールを造る事を目標に、宣教師に教えを乞う覚悟をした。
麦を材料に選んだのは、俺の知識では米の増産に自信がないからだ。
米の生産量は、増やせても三倍か四倍だと思うからだ。
だが、麦に関しては既に十倍の増産に成功している。
だったら、主食以外の調味料や嗜好品の材料を麦にすればいい。
そうすれば米を主食に使いつつ豊かな食生活にできる。
エールだけでなく、麦焼酎やウィスキーの生産を軌道に乗せて、米を使った日本酒や濁酒の醸造量をできるだけ少なくする。
1564年2月7日:目々典侍視点
「ようお渡りくださいました。
大したおもてなしはできませんが、精一杯お世話させていただきます」
今日も帝が私の部屋に来られました。
織田家から貴重な贈り物が届くようになって、毎日のように来られます。
見た事も聞いた事も飲んだ事もない酒が届いてからは、よほどのことがなければ、儀式の時以外はこの部屋に居られるようになりました。
「うむ、今日も頼んだぞ」
「はい、熱い笹をお持ちしなさい」
「はい、ただ今お持ちいたします」
織田家から手伝いに派遣されてきた者が、炭を惜しみなく使って熱くした笹を、馥郁とした香りを放つ燗酒を運んできます。
熱燗とは言っても、これまでの澄酒とは違います。
私が写本させた酒司と造酒司の書をもとに織田家が再現したお酒です。
何十年ぶりに再現されたお酒に、帝が夢中になられています。
澄酒を一番好まれていますが、他の酒を飲むのも楽しみにされています。
「今日のお酒と酒肴でございます。
こちらは辛口の酒でございます、こちらは干柿を使って甘くした酒でございます」
「うむ」
手伝いの女が馴れ馴れしく帝に話しかけます。
少し腹立たしいですが、織田家が怖くて何も言えません。
「こちらの酒肴は、塩雲丹でございます。
こちらの酒肴は、鰡の卵巣を塩漬けした唐墨でございます。
こちらの酒肴は、海鼠の腸を塩漬けした海鼠腸でございます。
こちらの酒肴は、鮑を干した物を戻して醤油煮しました。
こちらの酒肴は、鰐の尾を干した物を、出汁醤油煮しました。
こちらの酒肴は、香の物の盛り合わせでございます」
「おう、おう、おう、よきかな、よきかな、この塩辛さが燗酒に良く合う」
最近の帝は笹が過ぎるようですが、御諌めすべきでしょうか?
酔われた勢いで、手伝いの者に触れられる事が増えています。
地下家だと偽っている平民の娘に手を出すなど、絶対にあってはなりません。
「典侍様、織田家からの願いはかなうのでしょうか?」
帝が程好く酔われたのを見計らって、織田家から送られてきた手伝いが聞きます。
この娘は本当に頭が良い、常に最良の機会を捕らえて帝に願いを伝えます。
私に聞くように話しかけながら、実際には帝に願い出ているのです。
「何であったか、酔いが回ったのか思い出せぬ。
願いなどあったか、朝廷の記録などは既に渡したのだな?」
私の役目ですね、春齢を還俗させるためなら、永尊を尼にしないためなら、帝を騙すような事も……
「願いというよりは、帝への奉公だと思うのですが……」
「朕への奉公だと、どのような奉公をすると言っているのだ?」
「実は……」
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