第22話:影響力と信用
1563年7月12日目々典侍視点
「ようお渡りくださいました。
大したおもてなしはできませんが、精一杯お世話させていただきます」
今日も帝が私の部屋に来られました。
織田家から貴重な贈り物が届くようになって、毎日のように来られます。
「うむ、今日も頼んだぞ」
「はい、笹をお持ちしなさい」
「はい、ただ今お持ちいたします」
織田家から送られてきた手伝いの者が直ぐに酒と酒肴を運んでくれます。
家臣の子女を地下家の養女にして、五人もの手伝いを送ってくれました。
以前の私には一人の手伝いもいませんでした。
貧しい飛鳥井家では一人の手伝いもつけられませんでした。
「うむ」
帝が待ち遠しそうな表情をされています。
その気持ちは私にも良く分かります。
よほどの実力者しか飲めないような銘酒が飲めるのです。
正暦寺や興福寺が造る僧坊酒の中でも特に高価な、澄酒が飲めるのです。
人気のある正暦寺の僧坊酒、その上澄みだけを集めた澄んだ酒なのです。
帝でも、三好や毛利が献上してくれた時にしか飲めない高価な酒なのです。
「甘口と辛口の笹でございます、こちらは勇魚の塩漬けと湯引きでございます」
「おお、今日も澄酒が飲めるのか、良きかな良きかな」
地頭共に御領所を押領された皇室は、ろくなお酒も飲めないくらい貧しいのです。
貧しい皇室は、帝ですら普段は赤く濁った酢のようなお酒しか飲めませんでした。
それが私の部屋に渡ってきたら、有力者でも滅多に飲めない澄酒が飲めるのです。
「典侍様、鮎の塩焼きと鯛の塩釜焼きのどちらをお出しすればいいでしょうか?」
手伝いも女が聞いてきますが、本当は私に聞いているのではありません。
地下家の養女になったとはいえ、彼女の身分では直接帝に話しかけられません。
帝に聞いて欲しいと私に言っているのです。
「帝、どちらをお出しさせていただきましょう?
両方でも構いませんが、他にも生きた伊勢海老と車海老がございます。
帝のお好きなように料理させていただきますが?」
塩漬けした勇魚の肉を水で戻してから干して炙った酒肴と、勇魚の肉と脂が同じくらいの所を山桜で燻した酒肴。
澄酒と酒肴の組み合わせに夢中になっておられた帝が驚かれました。
それはしかたのない事です、私も送られてきた時にはとても驚きましたから。
鮎の塩焼きは京でも手に入る物です。
鯛の塩釜焼きは、高価ですが銭を積めば手に入れられます。
ですが、生きた伊勢海老と車海老は銭を積んでも手に入る物ではありません。
海から遠い京では、よほど強い魚以外は海から運ぶ間に死んでしまうのです。
鱧なら生きた状態で手に入れられますが、鯖は生きているからと油断して食べると、身が痛んでいる事があるのです。
頭は生きているのに、身体は死んで腐っているのです。
それくらい京で生きた海の魚を食べるのは難しいのです
それなのに、織田家は伊勢海老と車海老を生きたまま尾張から運んできました。
摂津の三好家や若狭の武田家なら、他家に邪魔されなければ、早駆けの騎馬に乗せて運んでくることもできるでしょうが、尾張の織田家では絶対に無理なはずなのに!
「鯛の塩釜をもらおう、伊勢海老と車海老は両方食べられるか?」
「はい、両方とも百匹ほど届けられております。
割鮮でも膾でも塩焼きでもご用意させていただきます」
「なんと、生きた伊勢海老と車海老が百匹もあるのか?
ならばひと通りの料理を出してくれ」
「承りました、伊勢海老と車海老を全部使わせていただきます。
明日には又届きますので、帝が満足されるまでお出しさせていただきます」
「典侍様、織田家からは菜種油も届いております。
興福寺や叡山で作られている油滋も作れますが、いかがいたしましょうか?」
「待ちなさい、そのような料理、聞いた事も無ければ食べた事もありません。
私が食べた事もない、どのような物かも分からない料理を、帝にお出しする訳にはいきません!」
「まあ、まて、ここの包丁人が作る料理はとても美味しい。
おかしいと思ったら箸をつけぬから、心配はいらぬ。
してその油滋とはどういう料理なのだ?」
帝が興味をもたれてしまいました、とても心配です。
急に近づいて来た織田家が何を企んでいるか分からず、不安でしかたありません。
織田家の助けなど突き返したいのですが、私の好きにはできません。
困窮する実家、飛鳥井家の勝手向きを考えれば、むげにはできません。
いえ、実家の事だけなら、帝の御命には代えられませんから突き返したでしょう。
ですが、大聖寺で貧しい生活をしている春齢の事を考えると……
「海老や魚、野菜に麦の粉を塗してから油で揚げる料理でございます。
唐から渡って来た僧によって伝えられた、興福寺や叡山といった有力な寺の権力者だけが食べている、特別な料理です。
海老はもちろん、鮎や里芋を油で揚げてもとても美味しいです。
塩で食べても美味しいですし、醤油や酢で食べても美味しいです」
「これ、帝に話しかけてはなりません!」
「よい、よい、ここには朕とそなたしかおらぬ
朕とそなたが話さなければ咎める者はおらぬ」
「ですが帝」
「それよりも、興福寺や叡山で食べられているという油滋という物を食べてみたい」
「ですが私も食べた事がない物でございます。
そのような訳の分からない物を帝にお出しする訳には……」
「では典侍が先に食べてくれればいい。
心配ならば作った料理人に毒見をさせれば良い。
それなら典侍も安心できるであろう?」
「帝がそこまで仰られるのでしたら、私に否やはありませんが……」
1563年7月15日織田信忠視点・7歳
内裏に送り込んだ甲賀衆の報告では、帝の胃袋をがっちりと掴めたようだ。
娯楽の少ないこの時代では、食と性に対する欲は前世よりも激しい。
生まれてからずっと貧しい生活をしていた帝には、特に良く効いた。
特に伊勢海老や車海老の天婦羅が気に入ったようで、直接要求するような行儀の悪い事はしないが、毎日のように、遠回しに食べたい態度をとるようだ。
だから、しばらく海老を送るのは止める。
言えば食べられるのが当たり前の状態ではつけ上がる。
与えておいて禁断症状が出るまで御預けにするのが有効だ。
我ながら性格が悪いと思うが、理想の世を作るためだからしかたがない。
足利は滅ぼすが、皇室は残すのだから少々の事を許してもらう。
帝が思い通りに動いてくれるか分からないが、だからといって謀殺する気もないし譲位させる気もないので、我慢させて誘導するくらいは許してもらいたい。
極悪薩長や腐れ公家のように、思い通りにならないからと、帝を殺す訳じゃない。
国の為と言って内裏に攻め込み、流れ玉が帝に当たる可能性もあるのに発砲砲撃を繰り返すような、腐れ外道な事は絶対にしないのだから。
「丹波守、父上に文を届けてくれ」
「御意」
新たに雇い入れた伊賀者の棟梁、百地丹波守に命じた。
蔵を建てても建てても保存場所に困る、有り余る銭を使って雇った。
伊賀の上忍三家と言われる服部家、百地家、藤林家を全員雇った。
本当は、少しでも忠誠心を得るために、扶持を与えて召し抱えたかった。
だが伊賀者は扶持で召し抱えられる者が少なく、銭で雇う事になった。
主君に忠誠を使う者が少なく、上忍に命じられたら敵味方に分かれて戦う。
いや、上忍が主君なら、主君に忠誠を尽くしているとも言える。
だから、その上忍、棟梁を雇い続ける事で伊賀者を陪臣化する。
敵に配下を送らせないように、上忍を高い金で雇い続ける。
多くの銭が必要になったが、専属を約束させた。
雇っている間に、中忍や下忍と呼ばれている連中を引き抜く。
抜け忍は地の果てまで追いかけて殺すと言われていたが、嘘だ。
それが本当なら、三河に服部家がある訳がない。
刻と条件が合えば伊賀者でも召し抱えられずはずだ。
以前から、不遇な伊賀者を選んで何十人何百人程度は召し抱えていたが、できる事なら伊賀一国数万人を丸抱えしたい。
それと、銭で上忍たちと専属契約を結べたからと言って、安心してはいない。
伊賀者だけでなく甲賀者も妄信している訳ではない。
安心して使える、伊賀でも甲賀でもない独自の忍者を育てている。
滝川一益の兄、高安範勝に孤児を預けて忍術の訓練をさせている。
世界に討って出るまでに、伊賀でも甲賀でも風魔でもない、誰の手垢もついていない、俺だけの忍者軍団を作り上げる。
先に作り上げた甲賀と伊賀の混成忍者軍団はあるが、心からの信頼はない。
彼らには、伊賀者甲賀者に関係なく、定期的に信長への文を任せている。
外に漏れても良い、むしろ敵方に漏れたら罠に嵌められる文を任せる。
その文の内容が外に流れたら、誰が信用できないか分かる。
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