第7.5話 瞳という人間

 兄が不倫した。

 私が大学を卒業して始めた不動産経営が軌道に乗ってきた時のことだった。


「兄さん……何してるの?!馬鹿なの?瑞希さんはどうするの!?」


 事実を知ったその日に私は実家に帰っていた。

 実家に居た兄は平然としていて悪びれた様子はない。ただ狂ったように高笑いをして写真を見せつけてくる。


「これが彼女。お金持ちのご令嬢でさぁ……逆玉の輿ってやつ?」


 私は胃の辺りを抑えてうずくまる。

 徐々に上がってくる吐き気を鎮めようと必死でその後のことは上手く聞き取れなかった。


 ただ、断片的に聞こえてきた単語で何となく察しは付いた。


「動かない」「使えない」「楽しくない」

「子供なんて……また作ればいい」


 気付いたら私は家を飛び出していた。

 引き留める声が聞こえた気がしたが振り返らなかった。振り返っては行けない気がしたのです。

 兄は変わってしまっていた。いや、もともとそういう人間だったのかもしれない。

 看病の間に愛想を尽かしたのか何が原因だったのか私には分からない。でも兄は親としての、人としての責務を放棄したのは間違えなかった。


「うぅぅ……おぇぇ――」


 自宅に帰ってからすぐに抑えきれなくなった。

 こんな身近に人間を辞める人が出るとは思ってもみなかった。そういうショックも大きかったが、それ以上に受け止め難い現実を思い出したからだ。


「お母さん……早く治ってね」


 毎日、病院に通って母親の完治を信じて止まない甥の存在だ。欠かさず母親の元に見舞いに行き、一生懸命に話をして元気づけようとしている健気な姿を私は知っている。

 兄にはその光景を見た上で何も感じないのだろう。


【子供なら……また作ればいい】


「うぇぇ――ゲホッゲホッ……」


 そうだ。こんな暴挙を両親は許すはずがない。

 私は身体を引き摺りながら携帯を手に取った。短いコールの後に父が通話に出る。


『もしもし?どうした瞳』

『あら、瞳ちゃん?元気にしてる?』


 どうやら通話越しに母もいるらしい。都合がいいと思いつつ要件を伝えようとした。

 

「もしもし……お父さん?兄さんのことだけど――」


 両親ならきっと反対してくれるはずだ。

 そんな希望を抱いて打ち砕かれるには時間が掛からなかった。


『お?瞳も聞いたか……。新しい婚約者ができて、今後が安泰になるなんて願ってもない。父さんはこれ以上の喜びはないぞ!』

『そうね!相手方は有名企業のご令嬢さんだって聞くし、私たちの老後も安泰よね』


 携帯越しに聞こえてくる陽気な二人の高笑いの声に私はうっかり携帯を落としそうになった。

 力が入らない右手を押えて通話を続けようとすると両親が先に話し出す。


『瞳も早く結婚しろよ!そして早く孫の顔を見せておくれ!』

『結婚は女性にとっての最大の誉れ。早く私たちに親孝行をしてちょうだい!』


 もう我慢できなかった。何も信じられなくなった頭を回しながら震える声を振り絞る。


「ねぇ……瑞希さんと……雄飛くんは……二人はどうするのよ……」


 しばらくの沈黙の後、ドス黒い悪意のこもった声がする。その声は確かに両親の物で間違えなかった。


『これ以上、あの娘には孫の期待ができん。ならば新しい健康な娘に乗り換えるまでよ』

『保険金はたっぷり賭けてあるから、後はあの子に優しくして保険金を貰えればいいのよ』

 

 私は無意識に通話を切っていた。

 何もかもがボヤけて見えて世界が回っていた。もう既に気は狂っていて身体は思うように動かない。

 両親からはっきりとは聞こえなかったが、最後にもう一つだけ聞こえた気がした。

 それは――


【そしたら……その子は捨てればいいさ】


「うぇぇ……ゴホッゴホッ」


 考えたくもない。両親が、私を育ててくれた人たちは皆んな揃って人間なんかじゃなかった。

 どこから間違えてしまったのだろう。私は何度も嘔吐しながら回らない頭をフル稼働させた。

 私には優しくしてくれた両親も兄も皆んな全部が表の顔で、裏は身近な人でも簡単に切り捨てて私腹を肥やす人でなしだったのだ。


「それならその家族の中で育った私も――」


 もう何も考えたくなかった。

 今までのたくさんの思い出、私腹を肥やす肉親たち。全てがどうでも良くなってしまった。


「お母さんは元気になって……雄ちゃんとたくさん思い出作りたいな」


 病室の外から聞こえた瑞希さんの言葉。

 私は無我夢中で走り出していた。身体の調子なんて今はどうでも良くなるくらいに走った。


「瑞希さん!」


 病室のドアを荒々しく開ける。

 時間帯的にも雄飛くんはまだ学校で病室には瑞希さん一人だった。


「瑞希さん……!お話があります」


 私は歯を食いしばって全てを話した。多分、瑞希さんは途中で泣いていました。私は何度も話を中断しようとしましたが、その度に私に続けるように促していました。


「瑞希さんの命が長くないことを知っています。苦しいけど今のうちに雄飛くんの為に手を打ちましょう」

「私の全てを雄飛にあげたい……。瞳さんにあの子のことを託してもいいかしら?この残酷な世界から雄飛を護ってあげて欲しい」


 瑞希さんは深々と頭を下げた。私は瑞希さんの手を強く掴んで、力の限り強く答えた。


「私が雄飛くんを護ります。例え……雄飛くんが真実を知らないまま嫌われたとしても絶対に守り抜いてみせます」


 こうして遺書で身請け引受人を瞳に遺産相続を雄飛くんに書き換え、保険引渡し人も雄飛くん本人に切り替えた。

 それから一ヶ月もしないうちに瑞希さんは亡くなった。


 書き換えの事実を知った兄や両親は激怒し、私を勘当したが全く問題はなかった。

 ただ、私はずっと雄飛くんと話せないままで居ました。父親は帰らず、母親を亡くした雄飛くんの絶望するあの顔は私は一生忘れることはないでしょう。そんな雄飛くんになんと声をかければいいのか分からなかったのです。


 そして月日は流れて私は今、泣きながらマンションのエレベーターで降りている。

 真実を伝えずとも雄飛くんは自分なりの真実に辿り着いて憎しみを糧に歩き出した。強く成長する雄飛を見ているのが私の生き甲斐だ。

 私は許されなくていい。そう思っていたのに、やっぱり心配で対面してみると涙が出てきてしまう。

 一番苦しかった時に傍で寄り添ってあげられなかった後悔と自分の中に流れる血への憎しみで感情が抑えられなかった。だからせめて陰から雄飛くんを支えてあげたい。私はその為に生きている。

 エレベーターが一階に到着して降り立った瞬間、瞳のスマホに通知が入った。管理先からのメールかと思い開いてみる。

 その瞬間、思わず止まりかけていた涙が溢れ出した。


『言いすぎてごめんなさい。後――僕をここに住まわせてくれて――


 このたった一通のメールと五文字に報われるなんて思ってもみなかった。


『ありがとう』


 雄飛の心情に変化をもたらしてくれたのはきっと蜜璃ちゃんだ。そう確信しながら瞳は涙を拭く。


「良い出会いをしたんだね」


 小さく独り言を呟いて私はまた一歩、前へと歩き出した。

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